でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

頭の中にいるイケメンはどこから来るのか

他人の頭の中は覗きようがないが、私は小説を読んでいるときに物語が映像として脳内で再生されている。あなたもそんなフシはないだろうか。なかったらごめんなさい。話は終わりだ。

それは文章に沿って一方通行的に起こっているわけではなく、ある程度キリの良いところまで行ってからブワーッと脳内にフィードバックされるような形で起こっている。物語への没頭はその映像化が起きたところから始まっているので、文章をせっせと読んでいるのは頭の中に脚本を叩き込んで、脳内に住む役者たちがそれを元にした演技を始めるまでの間は情報収集をしているということになるのだろうか。とはいえ、文章を読んでからの映像化は長くても十数秒、短ければ一秒未満の、それこそ文字を目に入れた瞬間から起きていることもあるので私の感覚がどこまで正しいのかはわからない。認識自体が間違っている可能性もある。

さて、この脳内での映像化が起きるとき、当然見たことも聞いたこともない世界の人間が動き始める。例えば私の脳内には先程まで読んでいた夏目漱石の『野分』に登場する白井道也先生や高柳君の気配がありありと残っている。彼らの顔や佇まい、声色なんかを思い浮かべることもできる。

こいつらは、どこからやってきたのだろう。

もちろん『野分』というお話の中からやってきたのだが、彼らの人相はそこまで克明に記されている訳ではない。眉や顎、耳の形や背丈なんかは文章中にヒントがある場合もあるが、大方は私の頭の中で作られた姿形であるし声に関しては完全に想像上の産物である。しかし私は物語を読み進めながら、確かに彼らの声を耳に聞いている思いがする。

以前Twitterでボヤいたことがあるのだが、私が小説の映像化を嫌うのは、実際の役者が演じることでそのキャラクターがその役者自身に固定されてしまう部分にある。万人にとって東野圭吾ガリレオ福山雅治になってしまったし、金田一耕助石坂浩二なのだ。あるいは古谷一行だったり役所広司だったりするけどもだ。とにかく実物の役者が出てきてしまう。これはすごく勿体無い。先に映像作品さえ見ていなければ、読んだ人の頭の中には読んだ人だけの探偵ガリレオが姿を表したはずで、頭の中のガリレオはその人にしか聞こえない声で喜怒哀楽を言葉にしたはずなのだ。

この小説を読んだときに登場するアクターたちは、おそらく自分が見聞きしてきた様々な人物データからなんとなく役に当てはまりそうな顔になって登場するのだと思うが、だとしたらなかなか大した役者である。

これをここまで読んでくれたあなたの頭の中で、この文章はどんな声色で奏でられましたか?

とても知りたいけど、できないんだよね。残念。