でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

自然な演技は難しい

以前から主張していることなのだが、映画の吹き替えやアニメの声優に本職でない人間が出て来るのがものすごく気に入らない。特にジブリが。

物心ついた頃からジブリ作品を敬愛しファンタジー世界の歩き方の教科書にして生きてきた私だが、その点に関してだけは「宮崎駿の感性は腐ってんのか」と渋面を作るのを隠さない。やーい、ロリコン伯爵ここまでおいで。

どこで読んだか聞いたかは忘れたが「プロの声優が持っている『お芝居くささ』が気に入らない」ということらしい。同じようなことを押井守も言っており、劇場版パトレイバー2のモブなどはどう聞いても一般人がやっている。そして驚くほどヘタクソなのでビビる。よくこれでOK出したな、というくらい棒読みなのでマジでビビる。ヘリや戦車の駆動音、戦闘機のノズルの動きまで書き込むなど細部にこだわっているだけにセリフのパープリンさの対比が一層狂って感じられる。

正直、監督の御方が言わんとしていることはなんとなくはわかる。プロの声優には独特の言い回しや呼吸が確かに存在している。全体的にオーバーであるし、なんというか喜怒哀楽がはっきりしすぎている。一般的な事務会話のような情報伝達のためだけに発せられる抑揚のなさ、感情を含まない不器用な透明さみたいなものは再現されない場合が多い。もちろんこれは不可抗力というやつだ。プロのスポーツ選手にヘタクソなプレイを意図的にさせることはできない。それっぽく手を抜くことはできるかもしれないが、それも追求すればまた違ったテクニックを必要とされることは想像がつくだろう。

さてさて。ここからが本題なのだが、プロの声優が作品の中で日常会話をしたときに生じる不自然さが気に入らないという嗜好を容認するとして、だからと言って俳優やまったくの素人に声優をやらせました、で自然な会話に近づくことはできるだろうか。それはノーだろう。圧倒的にノーだろう。

なぜならそこに求められるのは、あくまでも「自然に見える演技」なのだ。実際のシチュエーションにものすごく近しい場面に隠しマイクでも仕込んで会話を盗み撮りするとかなら話は別だが、セリフはマイクに向かって喋って収録している。もちろん監督は自然な感じで、いつも通りの雰囲気で喋ってくださいね、なんて言うんだろうが、そんなに上手くいくわけがない。我々は言葉を発するときに感情や抑揚はほとんど意識せずに喋っている。セリフという形がしっかり与えられてしまったものには、そのお話の世界を固定していく意味があり、方向性が与えられている。これは本来の会話とは少し違った、あるいは極めて増幅された機能だ。だから結果的に、自然さを意識すれば棒読みになるし、感情を込めればそこに不自然さが覗いてしまう。

NHKで放送されたアニメ『プラネテス』で、宇宙船の乗組員役を務めた子安武人氏は「フツーのおじさんなのでめちゃくちゃやりにくかった」という旨の発言をコメンタリーに残している。他にも色々なところで散見される話ではあるが「普通」や「自然」は一番演技がしにくい状態なのだ。

そして絶対にありえないことではあるが、もし仮に普通の、とても自然な会話が作品の中において実現されたとしても、おそらくそれは作品の中で自然には見えないし聞こえないだろう。なぜなら視聴者は適当な風景を漫然と観察しているわけではなく、作品を視聴しているのだ。そもそも自然な状態を見ているのではなく、お話の世界を見に来ているのである。だから逆に普段より敏感に棒読みの異様さに気がつくのだ。例えるなら小説の中に突然手書きの文字が現れたりするようなもので、演出としての導入であるならまだしも、それを常態として作品に溶け込ませようというのであれば無謀である。

自然か否か、は視聴者にはほとんど判断できない要素なのではなかろうか。元々不自然とわかりきったものを見ているのだから、そこに存在する解釈は上手いか下手かになるだろう。

以上。

プロ声優のなにが気に入らなくて俳優や素人を起用するのかわからないが、それは結果的に作品の完成度を削ぐ効果しか産みませんよ、という考察についてでした。

ぞろぞろと書いておいてなんだが、監督自身は望んでいなくても話題性やプロモートといったオトナの都合が多分に含まれていることくらい、察してはいる。