でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

推理小説の読み方

ミステリーに触れたのは漫画『金田一少年の事件簿』が最初だった。小学4年生くらいだったか、何気なく立ち読みして「ははあ、こういう物語があるのか」と目を丸くした。当時の私はミステリーというのは大人が読む物、頭の良い人が嗜む物、と考えていたので憧れを抱きつつも、自分がそうしたものを楽しめるのはずっと先になるだろうと思っていた。しかし漫画とういうこともあってどれどれと読んでみたら、まあ面白い。少しずつミステリーを読むようになり、いまもときどき書架にタイトルを増やしている。

その後、少し後発のミステリー漫画『名探偵コナン』が大ヒットして、いまや国民的アニメとして君臨している。余談だが、TV版では大手ガス会社がスポンサーであるために爆発シーンを控えなければならないぶん、映画版コナンはこれでもかと四六時中なんでもかんでも爆発させている、というコナン豆知識が存在する。真偽のほどは知らないが、確かにたまに見かけるとしょっちゅう爆発したり燃えたりしている気がする。本当に余談だが。

 

そういうわけでミステリー作品の雰囲気を定期的に摂取してはミステリアスいっすなあ、知的遊戯いっすなあと脳味噌を喜ばせているのだが、一番身近な読書仲間である母親にずいぶん前に貸し与えた有栖川有栖の『ダリの繭』の感想を聞いたところ「まだ読み終わっていない」という返事がきた。

はてな、と首を捻る。本を勧めたのは一月ほど前で、母親がたまにその本を読んでいる現場を私は何度か目撃していた。そんなに一心不乱に本を読む人ではないが、いくらなんでも読了が遅すぎる。中学生の読書感想文だって猶予は数週間しかないのだ。そこで「面白くなかったのなら無理に読まなくてもいいよ?」と念押ししたところ「違う。犯人が誰かを考えている」とのことだった。

 

犯人を考えている!

 

この返事に私はちょっと面食らってついでに、ああそういえばという気持ちになった。

言われてみれば、私もミステリーを読み始めた当初は解決編が始まる前に事件の真相をしっかりと考え抜いて、持論を完成させてから先を読んでいた。何度か解決編の導入と気づかずに読み進めているうちに犯人が指摘されてしまい憤慨したのを覚えている。そのくらい私も、犯人とトリックに見当をつけてから読む人間だったのだ。

しかしいまは違う。もちろん考えてはいるが、それは物語を読み進めながら同時並行的に行われる作業に水準が落とされている。これはあの発言と矛盾するな、とか、じゃああの話は嘘じゃん、とか、これがトリックかな、とか自分なりの予測を立てながら読んではいるが、それを逐一付き合わせたり根拠を煮詰める作業はしなくなった。

なぜだろう。どう考えてもそれらの作業を本格的にやったほうが面白いに決まってる。そもそも私がミステリーにハマって行ったのは、謎を解くという思考パズルの面白さがあったからではないか?

思い返せば一番ドハマりしていた大学時代、森博嗣を毎日のように読んでいた頃から、次第に推理をしなくなったように思える。森博嗣の『冷たい密室と博士たち』は謎を解けたことが嬉しくて一人で小躍りしていた記憶があるので、少なくともそのときはきちんと推理している。解決編の前に一度立ち止まる、というタメが省略されるようになった経緯がどこだったのかは定かではない。

確かに自分で推論を立てるのは面白い。だがそれは、ミステリー作品そのものとはまた別の、推理パートの面白さみたいな物ではあるまいか。乱暴なたとえになるが一口に「クルマが好きだ」と言っても、運転することなのか、洗練されたデザインを眺めることなのか、エンジンなどの工学的な分野なのか、その辺全部なのかは知りようがない。それらは全て「クルマが好き」な要素として語られていると同時に、複合的に好きの度合いを肯定したり高めたりする働きがあるように思える。運転するのが好きな人は走りを支える逞しいエンジンにも興味が湧くだろうし、デザインが好きな人は自分でそれを運転してみたくもなるだろう。しかし一方で「好き」を負担にするような行動をそこには含めないようにも思えるのだ。カッコイイ車だけど運転して傷がついたら大変だから絶対に乗らない、みたいな感じに。

ミステリーの話に戻ろう。私がミステリー作品で一番楽しんでいる要素は、謎が解き明かされていくカタルシスを存分に味わうこと、になる。基本的にミステリーは最後には謎が氷解して終わる。読者に提供される謎や恐ろしい犯人には必ず結末が用意されている。しかし上手で面白いミステリーほど、謎はどんどん深まっていくしミステリアスな雰囲気も強くなっていく。おいおい、残り50ページもないぜ、どうやって解決するんだよ、と思いながらページを捲っているときが一番楽しいのだ。

さて。そうやって物語を読み進める楽しみがまさにあと一歩で絶頂というところで、解決編が始まる気配をこれまでの経験から読者はなんとなく察する。

そこで栞を挟んで一度ページを閉じ、これまでの謎、事件、推理、犯人の正体、それらを検証すべく間を置くことができるだろうか?

いや、できない!

解決編までの道のりが面白いほど、ミステリーとしての構成が重厚であるほど、探偵や事件の関係者が魅力的なほど、その先を読むことを我慢することができず、私は一瞬も葛藤することなくページを捲ってしまう。つまり、犯人やトリックの推理のために読書を中断することのほうが、このまま読み続けることより楽しくなるとは思えないから読んじゃう、という判断を下していると言えよう。

先ほどの喩えでいうなら、私はミステリー小説の「ミステリー」の部分よりも「小説」の部分に楽しみを見出して「ミステリー小説」が一番楽しくなる読み方を実践しているということになるだろう。

 

しかし……しかし本当にそうなのだろうか?

母親の「犯人を考えている」という中断こそ、さらに強いカタルシスを感じるための読み方なのではないだろうかという疑念がどうしても拭えない。そこでぐっと堪えて我慢することでさらにミステリーを楽しむことができるのではないか。

答えを知る方法は簡単。次に読むミステリーでは、解決編を読む前にじっくりとっぷり自分で考えてみればいい。時間という制約がない、いましかできない贅沢な手段であるし試してみる価値はあるだろう。評判の良い未読のミステリーが古今東西、たくさんひしめいているというのはビギナーにとって喜ばしいことこの上ない。

ただ、解決編の手前でぶら下がったご馳走を目の前にしてその自制を働かせることができるか。その自信はあまりない。