でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

ゲームのトラウマ、という感覚

Twitter上にて「おまえらのゲームのトラウマ挙げてけ」というハッシュタグを見掛けて、つい反応してしまった。

ストーリー上でショッキングなシーンとして印象的だったのは『かまいたちの夜』で真理を階段から突き落としてしまうバッドエンドと、『ゼノギアス』で何気なく口にした缶詰の中身が変容した元人間だったことが明らかになる演出の2つがすぐに思い浮かんだ。前者は元々がサスペンスなので殺したり殺されたりという展開が多く他にもショッキングな展開が目白押しなのだが、殺人事件が相次ぐ中で「真理ちゃんだけは何としても俺が守らなあかん」と決意を新たにした直後、自分の手で彼女を殺害してしまうという落差に心臓を捻られた。死にたい。死ぬけど。後者は直前までのシタン先生との何気ない会話が淡々と狂気や物騒な雰囲気を醸し出し、緊張が高まったところでバーンと事実が明らかになる演出の妙に背筋が冷える。PS黎明期のRPGには挑戦的なストーリーが多いが、ここは特にトラウマシーンとして有名である。

そこから少し前、SFCの成熟期に発売された『クロノ・トリガー』でルッカの母親が機械に巻き込まれてしまうシーンも有名だろう。こちらはプレイヤーの操作次第で助けることができるのだが、入力場所やタイミングがわかりにくいため初見では失敗することが多かった。当時のゲームとしては珍しい「キャアッ!」という悲鳴が聞こえることも精神衛生を強めに殴ってくる。ストーリーの演出というだけでなく、自分のプレイが原因で惨事になってしまったという罪悪感も加わることがトラウマ度合いに拍車を掛けている。ちなみに『クロノ・トリガー』は他にもキツめなシチュエーションやバッドエンディングなんかが多いのだが、続編の舞台設定に救いがないのがファンには最も苛烈だったと言われている。

ストーリーや演出以外にも「これまでのプレイで得た自信やプライドがズタズタにされた」「ゲームの進行ができなくなった(詰んだ)」などの理由でプレイヤーの心に影を落とすパターンがある。前者は『ドラゴンクエスト6』のキラーマジンガ、後者は『FFT』で充分な対策をせずにキュクレインやウィーグラフ戦前にセーブしてしまった場合などを指す。これらは物語の世界で追うダメージというよりはプレイヤーが実際にこちらの世界で受けるダメージであるので、実体験的トラウマとして強めに印象に残っている人が多いようだ。もちろん私も上記の例を自ら実践してきている。気持ちはとてもよくわかる。わかる。

 

さて。こんなことを悶々と考えていたのだが、いくら強烈なストーリーや演出があったからといって「トラウマになった」として語られる媒体として、ゲームは随分多いような気がする。同じようにトラウマになりそうな展開の小説やドラマ、アニメなんかはたくさんあるが「トラウマになった○○」として話題になることは多くないように思うのだ。

おそらくだが、ゲームは実際にプレイすることで「参加する」という意識が強めにはたらいている。映像作品や小説は視聴しているという立場であり、その世界にいるのは自分自身ではない。一方でゲームの世界には自分が操作できる、自分の分身がいる。その分身が受けた心理的外傷はある程度こちらの生身にもダメージを伝えてくるのだろう。

そして、ゲームは本来、攻略されるのを待っている。プレイヤーの努力と練度によって都合よく倒されるように作られ、プログラムされ、道筋を辿ればエンディングまで行ける物となんとなく安心して取り掛かっている。そこへ想定していた予定調和を逸脱した展開や演出がズバッと飛び出してくると油断していた精神には強めにそれが刺さるのだろう。

 

いまではゲームの自由度は上がった。ただ倒されるのを待っているだけのゲームは少数派になってきているかもしれない。ゲームの向こうで現実の誰かと対戦するケースも増えている。プレイヤーの心構えも相応に緊張感を生んでいるだろうから、先述のようなシーンをいまのユーザーが体験したところでトラウマを抱えてくれるかは疑問だ。

ここまで書いてきてなんだが、トラウマ、という単語がこの感情にふさわしいのかも考える余地があるかもしれない。印象に残った、面白かったシーンとして記憶していて、そのゲームは特別な存在になっているのだからトラウマ呼ばわりは少し不名誉なのではないだろうか。真理ちゃんホントごめん。