でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

柿の木

酒を飲んだ叔父を家まで送ることになった。昼前に始まった葬儀の終わりに設けられた酒席だったのでお開きになった時間は比較的早かったが、晩秋を迎えた外は十分に暗くなっていた。この叔父は長く病院に勤めていた人で、いかにも田舎の百姓めいた親戚一同においては珍しく(と言ったら失礼だが)教養があり多趣味だった。集まりでのお酌やおべっかに疲れると、私はそれとなくこの叔父の近くに座ってあれこれ話をしながら時間を潰したものである。

叔父を助手席に乗せて村の狭い道路を走らせる。明かりの乏しい集落の外れ、農道に出る辺りの道端に人影を見つけた。色の褪せた赤い帽子にところどころ擦り切れたブルゾン姿は見覚えがある。いつもこの辺りで作業している老人だった。普段は歩き回ったりなにか作業をしていることが多いのだが、今日は夕暮れと呼ぶには暗すぎる空にぽつぽつと実る柿を見上げて突っ立っていた。

「お。議員センセイだ」

通り過ぎるのを横目に叔父が呟く。言葉にどこか侮蔑的な響きを感じて私は聞き返した。

「うちの町内で議員ってK先生?」

「そう。二十年やったよ」

私は小さく驚嘆の声を上げた。このご老体がK先生だったとは。そして同時に、はてな、と記憶を遡る。幼少の頃からその名前は聞いていた。聞いていないはずがない。百人程度の集落から議員先生が出たとなれば我が町(方言だと「おらほ」)の名士だ。子供の頃に「とても偉い人」という刷り込みが十分に行われていたのだから、そうした潮流が村内にあったのは間違いないはずである。それにしては質素というか、正直に言えばみすぼらしい格好でこんな時間に村外れに突っ立っている。

「引退してからは百姓の真似事ですか」

私の質問に叔父は曖昧に言い淀む。

「そうか、君は知らないか」

 

叔父の話ではこうである。

確かに議員先生であるうちはよかった。後援会や勉強会が組織されて推進活動や研修旅行などが企画され、近くの集落の人もそれに協力してくれた。地域はにわかに活気づいたという。しかし選挙に出るたびに、その資金を捻出するため先生は自分の家の水田を売った。いまでは二束三文にしかならないが、当時はそれなりの額にはなったらしい。もちろん場所や形状(田舎には妙な形の田んぼが多い)が立派だったこともあるだろう。先生自身は婿養子であり集落の出身ではなかったため、先祖代々の土地を売り払うことを本家は憎々しく思っていたらしい。だが議員先生である。それを止められるだけの発言力を持つ人もいなかった。

そして先生は定年を迎える。現役のうちは「地域のため」「今後の生活をよくする」と豪語して頑張っていたが、結果として目に見える形でその恩恵は我が集落にはもたらされなかった。企業の誘致や公共施設の建設、交通インフラの整備、なんでもいい。なにかひとつでも「村のため」に残されたものがあればよかったのだが、そんなものは皆無だった。それどころか最寄駅には無人駅の駅舎以外には商店のひとつもなく、市バスは採算が取れないことを理由にうちの集落には寄らなくなった。一方で3キロほど離れた山の上には大型のショッピングモールが建ち、ニュータウン建設も始まった。ときどき土器や遺跡の残骸が発掘されたりカモシカが出るだけの山は、市内でも賑わいのある街へと変貌していた。

定年後の先生には、町内の尊敬を集めるものはなにひとつ残されていなかった。ご先祖様が葦原を開墾して作り上げたありがたい水田はほとんど手放してしまっていた。稲作中心の農家はどうしても水田の面積やコメを作る技術で人を判断する。議員の肩書きのなくなった先生は、そっちではぶっちぎりのビリッケツだったのだ。叔父曰く「よくカミさんに追い出されなかったと思うよ」だそうだ。

 

「そんなことがありましたか」

赤信号で停まりながら私は呆然としていた。故郷を離れていた15年が長かった時間であったと今更ながらに感じられた。

「俺もたまーにしかあの辺は通らないけどさ、通ると必ずセンセイは外にいてなにかやってるよ。家には居場所がないんだろうな」

叔父の台詞に私は頷く。確かにそうだ。あそこを通ると、いつも外にいて、なにかをしている。

「別にあの人が悪い訳じゃあないんだろうけどな。でも、そういうふうに、なった」

「いまでは秋の黄昏に柿の実を見上げる、ですか。なんだか故事成語みたいですね」

「むかしは希望も野心もあったんだろうさ。内容は思い出せないけど熱心に語ったりもしたよ。それが柿の太り具合や味を思い浮かべて佇む老人になるんだから、まあ人生はほどほどでなくっちゃあな」

叔父の家に着く頃にはすっかり夜の帳が降りていた。水銀灯の下で叔父を降ろす。挨拶をして、私は自宅へと来た道を戻った。帰り道でもう一度、老人と柿の実の姿を探したが夜の闇はすでに予想以上に深く、赤い帽子も黄色い果実もヘッドライトが捉えることはできなかった。