でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

文学フリマ『自分探しの旅は短パンで』の感想

昨日の続き。

表題の作品を出展したのはイチ・ニイ・イチ、というサークル名だが、構成人員である長尾パンダ、村主、せきしろ、の名前を出したほうが世間的にはピンとくる人が多いのではないだろうか。ハガキ職人、と呼んでしまうとなんだか「それでいいのかな」という気がしてくるが(絵師とか歌い手みたいなモヤモヤ感がある)実際その形容が一番相応しいように思う。そうした界隈のいわば有名人の集まりだ。

かく言う私も、短い期間ではあるが投稿活動をしていたことがある。活動の場はファミ通町内会サラブレの『ますざぶ』に限られてはいたが、せっせとネタをしたためたハガキを投稿したりメールを送ったりしていた。特にファミ通町内会(とゲーム帝国)は小学校高学年の頃から愛読しており、私のユーモアや大喜利に関する知見はここを中心に育んできたと言っても過言ではない。その読者投稿業界における第一人者と呼ぶべき人たちが集まって一冊作ったというのだから、興味を持たずにはいられなかった。

本書に収められているのは長尾パンダさんの『消化試合』、村主さんの『(どこかへ)』、せきしろさんの『オウム返し』の三作。『消化試合』が百ページ超の中編で、他の二作は30ページ程度の短編となっている。表紙がレトロフューチャーな冒険者風の三人組が地図やコンパスを手に白い息を吐いて突っ立っているイラストだったので作風もそういう感じかと思っていたが、そこは三者三様であった。以下、作品ごとに感想を書く。

 

長尾パンダ『消化試合』

さあ舞台は宇宙の果てか孤独なコロニーか、と構えながら文章を目で追い始めると物語はうらぶれた大学の学生課事務室からスタートする。おや、と思いながら読み進めると次第に先入観が間違ったものであることがわかってくる。展開していく物語にはコメディの気配は一切ない。地に足のついた小説が広がっていく。正直、面食らった。

主人公である青年の挫折、無力感、同時に「なにかしなくては」という焦燥、しかし「今更なにを?」という葛藤。そうしたものがすっと手元まで伸びてくるように感じられる一方、物語は少しずつ緊迫感を増していく。心理描写だけでも面白く読んでいたところにサスペンスの色がぐっと主張してきたときには鳥肌が立った。十分な加速を得ると、物語は余計な回り道はせず終着点まで一気に突き進んでいく。

展開の起承転結、主人公の心情の移ろいを楽しみながら読み終えることができた。特に常に陰鬱な気持ちを抱えながら、それでも現状をなんとかしたいともがく主人公の描写は王道ながら生き生きとしたものを感じた。

 

村主『(どこかへ)』

不思議なお話。独白のように始まる物語は、語りの中で視点を変え、場面を変え、空気を変えていく。そして描かれる風景が変わるごとに少しずつ世界を留めているネジが緩んでくる。現実感が失われ、同時に緻密な描写は増える。事細かな筆致は現実感を否定し、感覚はその整合性を天秤に掛けて揺れている。秤が思いきり揺れてひっくり返るようなところで、視点は物語の最初に着地する。

語り手はどこかへ行くという。そこまでを読み、文章から与えられた世界を歩き回った感覚はどこから与えられたものであるのか。そんなことを考えてしまう読後感だった。

 

せきしろ『オウム返し』

コントの脚本のような展開だが文章に台本のような気配はなく、ひとつの物語としてすいすい読める。こちらの言うことをオウム返しにそのまま真似してくる第三者にそれを止めさせるべく奮闘する話なのだが、たったそれだけのくだらないことに、様々な手段と馬鹿丁寧な描写を持って終始立ち向かうところに執念を感じた。

『(どこかへ)』が途方もない渦から最後にぽんと抜け出して終わったのと比べると、こちらは狂気こそ薄いものの(十分ぐにゃぐにゃだが)その渦に閉じ込められたまま終わってしまうので心根に残す印象はダークであるように感じた。

 

以上。楽しく読ませていただきました。

物事や心理を文章として考え慣れている、書き慣れている人たちだからか、ピーキーなとんがった部分は感じながらも、収まるべき枠にはきちっとハマっている印象を受けた。いつか自分もこうやって書いたものを形にできたら素敵だろうな、と思わずにはいられない。

今後の開催を一層楽しみにしながら、まずは自分もこうして細々と文章を書く習慣を大事にしていこうと思っている。