でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『王とサーカス』米澤穂信

 よく社会人は「学生は気が楽だ」とか「学生のうちの苦労なんて大したことはない」と矮小化して考えてしまうが、私はそうは思っていない。住んでいる世界が違うだけで、そこにある辛苦や地獄がのし掛かる重み自体には変わりがないはずだ。仮に、その枠組み自体が幼稚であるし学生程度の天国地獄はやはり大したことがない、という相対論になるのであれば、日本という世界的にも極めて安全な枠組みの中に暮らす我々の苦労など、より厳しい環境に身を置く誰かにとってはお遊びだという事実を受け入れる覚悟が必要になろう。それぞれの世界に等しくそれぞれの問題がある。

 米澤穂信はそうした、学生ならでは、地域ならではの地獄を描くのが上手い。血なまぐさい凄惨な現場を書くことなく、肌を刺すような痛みや苦しみを描き、そこにミステリーとしての舞台を整える。大したことのなさそうなものを大した物語として描きあげる作風に、読了後はいつも大きなため息が出てしまう。気がつくとファンになっていた。

 

 少し前に読了した『さよなら妖精』が望外に面白かったので、その続編(と呼べるかどうかは微妙なので、後で触れる)である今作も読むのを楽しみにしていた。先日口汚く罵った(あれは『大賞』のほうだが)『このミステリーがすごい!』何年連続何位でうんぬんというけばけばしい帯広告が美しい装丁を台無しにする形で纏わり付いており、それを丸めてゴミ箱に捨てるところから物語を始めた。

 本作は一読の価値があるとTwitterを通じて薦められていたし、米澤穂信の作品も片手を超える数は読んだ上で面白さに信頼の置ける作家だと思っている。特に『さよなら妖精』では91年に勃発したユーゴスラヴィア紛争をテーマとして取り上げ、『古典部シリーズ』に見られる学校生活を中心とした青春群像ミステリーの読み味に加えて、ノンフィクションの興奮と深みを与える野心的な作風が見られた。思い返せば短編集『満願』にもエネルギー開発のために途上国へ赴任し、そこでサスペンスに巻き込まれるエピソードがあり、そこで描かれる異国の描写や価値観のタガが外れたような発想から生まれるサスペンスはとても面白かった。近くの箱庭から異国の生活まで幅の広いロケーションを展開できる教養の豊富さは著者の大きな武器だろう。

 

 物語は01年に起きたネパール王族殺害事件をベースに進行する。『さよなら妖精』と大きく異なるのは、主人公がその事件自体に介入し、調査しようとする点だ。前作では外国で起きた大きな事件に関わることができず、まだそれに対する回答や手段を持たない少年少女がその圧倒的な差異と断絶を前に葛藤する姿が中心となった。一方、今作で主人公となる大刀洗万智は10年の時を経て大人となり、記者の肩書きを持っている。必要とあれば事件の内情を暴き、世間に伝える力を有している。本作ではそうした目的と力を持つこと、その力を行使すること、誰のために、なんのために、というミステリーやサスペンスが抱える、知的遊戯の負の部分に大きく切り込んでいる。

 異国ネパールのカトマンズを舞台に、頼れるものは身ひとつの太刀洗が出会う事件と人々は、実に奇妙で一癖も二癖もあるような深淵を予感させる。乾燥した砂埃の気配や人と物に溢れかえる雑踏のような異国情緒も味わいつつ、調査するにはあまりに巨大な事件と、それを追うなかで太刀洗に迫ってくる姿の見えない脅威はハードボイルドとしての読み応えも十分だ。

 

 物語の随所で太刀洗は記者としての覚悟を他者から、あるいは自分自身から問いかけられる。それは日常生活においてニュースを消費している、我々読者の視点に直結した問いでもある。『さよなら妖精』ではその隔たりに届かない無力感や絶望が強く出ていたのが印象的だったが、本作ではその距離や差異を超えてしまうことで生まれていく様々な反応や変化に対してどう向き合わなければならないか、にテーマが一歩進んでいる。

 そしてユーゴスラヴィアという異国の友人がいたことから生じた前作のテーマに比べ、本作が読者に投げかける疑問と批判はニュースを消費して過ごすひとりの市民として回避できない、普遍的で根源的なものだ。太刀洗に迫っていく危機への息苦しさが、読了後にはそのまま読者に切っ先を向けられる構図は見事としか言いようがない。

 

 以上。ミステリーとしてはもちろん、ノンフィクションとしての側面も興味深い贅沢な作品だった。

 前作との比較が目立つ書きぶりになってしまったが、主人公が前作から引き続き登場する人物というだけで直接的な関係性はない。作風もなにかの続編というような気配はなく、最初から最後まで起承転結は綺麗に纏まっており、主人公がひとりの記者としてスタンドアロンの視点から行動する本作は全体像も掴みやすい。なにより事件が強大でテーマも深いため読み応えがある。

 私だったら米澤穂信を初めて読む人には本作を勧める。そのくらいミステリーとして面白く、メッセージにも力があった。この本やこのシリーズをきっかけとして、調べたいことや読みたい本、新しい知見に対する興味が見つかっていくことは間違いない。

 

※2月27日 追記・修正