でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

次週は作者取材のため休載です、考

 今日も読み終わらなかった。しょうがない。だって『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めちゃった。『リトル・ピープルの時代』を深く理解するには自分にも感覚の追体験が必要だと感じてしまった。

 実は先に読んだ『母性のディストピア』でも、宮崎駿押井守はほとんどの作品を幼少期から青年期までの長いスパンで視聴し続けているので共感できる部分が多かったのだが、著者がもっとも敬愛し重要視している富野由悠季の作品には疎く、曖昧なイメージの中で読み進めることになったのを残念に感じていた。ガンダムイデオンも登場メカや大雑把なあらましは知っているのだが、じっくりと鑑賞したことがない。もちろん著者は視聴歴のない読者にも伝わるように骨子を説明してくれてはいるが、そこに同じ視聴者としての感覚の共有があれば一層楽しめたのではと歯噛みする思いだった。

 アニメを1作品見直すのは膨大な時間が必要となるが、別の著作を通読するだけなら数時間あれば十分だ。というわけで『リトル・ピープル〜』は作品内で引き合いに出された作品に改めて触れることも惜しまず、丁寧に読んでいきたいと思う。3月になり、潤沢に時間を使えるのもいよいよ残り1ヶ月となったので、この『リトル・ピープルの時代』をどこまで精読できるかをテーマに、今後の読書感想をはじめ当ブログを更新していきたい。もちろん、他の本も読んでいく。積ん読の山はこれだけ読んでいるのになぜか減ってくれない。

 

 さて、読書感想を休むにあたり、今日は表題に関して思い出したことをつらつらと。

 漫画雑誌を買うこともなくなったので、表題のような次回予告で休載が知らされる文化がいまだに存在するのかはわからない。私が毎週『少年ジャンプ』を楽しみにしていた頃は、よくこんな表現が見られた。

 そして見るたびに思っていた。嘘をつくなよ、ようは休暇だろ、と。

 もちろんそれを責めるような気持ちは当時からなかった。むしろ毎週20ページの漫画をコンスタントに精製できるシステムのほうが不思議だった。ただ描くだけでも難儀だろうに、ストーリーを考えたり、カラーページを塗ったり、単行本の仕事もあり、メディアミックスの広告や宣伝にも付き合うだろう。小学生ながら思っていた。漫画家はいつ休むんだろう?

 そんなある日「次週は作者取材のため休載です」のお知らせを見て、はっと思いついた。漫画家は、この手法で定期的に休みを取っている。

 納得がいくと共に、少し不愉快な気持ちにもなった。それはようは仮病だからだ。次号休載です、だけでいいのに、なぜ取材などという嘘をつくのか。舞台や背景が現実的なわけでもなく、ストーリーに専門性があるわけでもないのに、なにを取材しに行くのか。どんな土地を見物して、誰の話を聞いてきたのか見せてみろ。というような、なんだかよくわからない反発心が当時の私には渦巻いていた。まだ潔癖な少年だった私は、作者の保身から生まれる嘘が気に入らなかったのである。休みたければ「次号休載です」だけでいいじゃないか、新聞だって休むし、NHKのアナウンサーだって土日は違う人が出る。漫画家だって堂々と休めばいい。なぜ、仕事の一環のようなフリをして休むんだ。許せん。そんなことを考えていた。我ながらめんどくさい少年だ。

 

 時は経ち、私も社会人になった。

 漫画雑誌を購読することはなくなったが、単行本はときどき買っている。立ち読みは金を稼ぐようになってからは申し訳なくてしなくなった(試食コーナーで腹一杯にするような行為だと思っている)。サビ残当たり前、休日出勤当然、という社風だったので週刊少年誌の漫画家には同じ悲哀を感じることもあった。彼ら(彼女ら)はさらに、会社員のような後ろ盾も持たず、自らの感性とパフォーマンスだけを武器に戦い、しかも気まぐれで移り気な読者からの人気に生活が掛かっている。そんな考えがぼんやり浮かぶせいか、どう見ても先のない、つまらない漫画を読むと現在の自分と重なって、いたたまれない気持ちになり、そういう玉石混合、十把一絡げの漫画雑誌が楽しめなくなった。そんなこんなで三十代も半ばまでやってきたところで、表題の疑問が改めて思い出された。

 しかし、作者取材のため休載です、は、本当に取材に出掛けていたのだろうか。小学生のころよりは見聞も広がっているので、漫画を描くのに必要な取材というものが様々な分野に及ぶことにも想像が追いつくようになった。ただ、やはり週刊連載という形式で絶えず物語を作りださねばならない環境下で、どこかへ取材に行く、というのが若干ナンセンスに感じることも否定できない。

 いまはSNSの普及によって漫画家の反応を見ることはもちろん、作品の感想を直接ぶつけることもできるし、作者によっては執筆に苦心しているナマの声がリアルタイムに見られたりする。私が子供のころは単行本のオマケページくらいでしかコンタクトを取れない、山奥に暮らす孤高の職人みたいなイメージだったのだが時代は変わった。取材の様子を見ることができる漫画家もちらほら見受けられる。

 少し前に、自殺すると決めた人が死ぬ間際に綴る文章は面白い、という不謹慎なことを書いた。それは自身の最期を前に、これまでの人生を振り返り要点だけを記そうという、自分という歴史への丹念な取材が行われるからだろうと推察した。人生という題材を死というふるいに賭けて描かれたものが、つまらないわけがない。死ぬつもりはなくても、作家が傑作を生み出そうと知恵を絞る工程はそれに通じる痛苦があるだろうと想像している。

 だから、仮にそれがただの休暇で、一日中布団に潜っていたのだとしても、それは取材だったのだろうなと、いまの私は納得することができる。作品を生み出すための、創作時間からの撤退が〈取材〉なのだと。それが余暇ではなくて取材になってしまうことこそ、漫画家という人々が背負った覚悟だと思うと、少年時代とはまた少し違ったリスペクトが生まれてくる。

 真相はわからないし、特に重要でもない。そんな時代もあったし、いまはどうなんだろうな、という与太話であった。

 

※2日追記・修正