でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

私とドラゴンクエスト

 ドラゴンクエスト11のつまらなさは、紅白歌合戦のそれに通ずるものがある。さっきひょっこり思いついた。

 言い換えるなら、最新技術で構成される絶妙な古臭さだ。センスが古い。キャラクターが古い。メッセージ性が古い。演出が古い。それらはある程度までならノスタルジィを喚起させ〈味〉としてはたらく場合もあるのだが、ドラクエ11はそれをオシャレで最先端であるかのようにやってしまったという製作者側のダサさがひしひしと滲み出ていてダメだった。

 好みの問題と言われてしまえばその通りなのだが、作り込みはこれまでの作品に比べてかなり甘かったように思う。個人的に一番いただけなかったのがフィールドマップのいい加減さだった。凶暴なモンスターが特に仕切りのない建物のすぐ側をうろうろしていたり、管理する人間もいないと思われるのに立派な橋が組まれていたり、湖の真ん中など不自然なところに大きな木が生えていたり、スカスカの祠の真ん中に宝箱があったり(扉には厳重に鍵がかけられている)、モンスターの生態系が意味不明だったり。まあ、気が利いていない。

 これはドラクエに限った話ではない。中途半端にリアルになってプレイヤーが介入できる要素が増えたぶん、かえってできないことが目立つようになってしまったのだ。バイオハザードならアイテムをどこに持っているのかとか、洋館にトイレがひとつしかないとか、そういうツッコミどころになるだろうか。もちろん指摘するほうが無粋なのだが、そうした瑕疵を目立たないように体裁を整えるのも重要なことだろう。それがドラクエ11は特になっていなかった気がする。結局、いまさらこんなゲームを遊ばなくてもいいか、という気がしてしまってラスボス一歩手前で止まっている。おそらく今後もそのままだろう。

 

 勘違いしないでいただきたいのだが、私はドラクエシリーズのファンだ。11は賞味期限切れの干物という評価を与えざるを得ないが、幼少期から青年期にかけてその都度プレイしたドラクエたちは、よい思い出と共にいまも私の一部になっている。今夜は感想を書くべき本もないので、少し私のドラクエ遍歴を振り返ってみようか。

 

 私が初めて遊んだRPGファミコンの『ドラゴンクエスト3』で、最初に触ったのは小学生になるかならないかのころだった。まともに遊べるようになったのはそれから少ししてからだったと思うが、コントローラーを操作してキャラクターを動かし、物語を読み解きながら成長させるという行為自体に触れるのはずいぶん早い時期だったと記憶している。

 敵を倒すとレベルが上がって自分が強くなる(より早くやっつけられる)ということを理解するのに時間は掛からなかったが、システムとなるとそうはいかない。城下町での情報収集という概念がなかったため、延々とアリアハン周辺を散策してはスライムとおおがらすを殴り伏せ、HPが減ってウィンドウの色が変わると家に帰って休むだけの日々が続いた。それはメタ的な部分に限ったことではなく「ぼうけんのしょに きろくするかね?」という王様の問い掛けがセーブデータの記録を尋ねられていると気付かず、突如湧いた反骨心から「いいえ」を選んで成長を台無しにしたりもした。それでもドラクエは楽しかった。私の勇者はアリアハン大陸でベギラマを使えた(最序盤でLv23は正気の沙汰ではない)。

 文字が労せず読めるようになり、物語の起承転結がいかなるものかという理解とRPGというゲームの成り立ち自体が飲み込めるようになって、初めて冒険がスタートした。しかし、しばらくは些細なことで物語につっかかった。たとえばアリアハンの先、レーベという村には大きな岩を押している村人がいる。村人が渾身の力を込めても動かせない大岩を勇者は前に立って十字キーをついと押すだけで動かせてしまう。これは、そうしたギミックがありますよという紹介でしかないのだが、私はこの大岩が動かせる以上、それに呼応する仕掛けが近くにあるはずだと思い込んだ。大岩を押しながら村中を駆けずり回ったり、大岩の前で様々なアイテムを使用したりした。他にもアリアハンのすぐ西に見えるナジミの塔にいくために必要なアイテムが〈キメラのつばさ〉だと勝手に思い込み、大量に購入してはいろんな場所で使ってみるなど報われない努力を重ねた。不毛だったがドラクエは楽しかった。失敗から学ぶことは多いのだ。

 ファミコンの電源を切ってからも、想像力がドラクエの世界から完全に離れることはなかった。モンスターの生態や呪文の成り立ち、町や城の人々のことをいろいろと想像しては夢想を膨らませた。そうした癖はいまだに私のなかに根強く残っており、中ボスとして現れるキャラクター(カンダタとか)や噛ませ犬のようにポッと出てはやられていくようなモブ(ドラクエ8のゼシカ兄とか)に対しても、彼らの能力からその半生や修行ぶりを妄想するのが好きだった。そうした物語性の構築のようなものがなかったら、いまのように読書を趣味とすることもひょっとしたらなかったかもしれない。

 

 その後、小学校の2、3年生のころにドラクエ4を遊び、まもなくスーパーファミコンを入手した。発売当初から憧れはあったのだが品薄状態が続いていたことと、ファミコンソフトも十分面白かったことで購入の機会を逃していた。買ったときには、いまは亡きハローマックで早朝から並んで購入したのを覚えている。当時ハローマックでは(その店舗だけかもしれないが)人気商品の取り置きをしておらず、購入は先着順という弱肉強食のルールがあった。なぜかテンションの高かった父親と共に日の出より早く出掛けたにも関わらず、私たちが3番手だったときの衝撃はいまだに覚えている。世の中、上には上がいる。

 しばらく当時の流行だった格闘ゲームに浮気したのちにドラクエ5を遊び倒し(ヘルバトラーを3体仲間にした)、ドラクエ6にも順当にハマった。この頃には私が一番好きなゲームジャンルはRPGに固定されていた。ファイナルファンタジー6には幻想世界への興味関心を引き立てられたし、クロノ・トリガーのストーリー性や強くてニューゲーム、マルチエンディングに見られるサービスの多様性にも衝撃を受けた。

 ドラクエ7はハードがプレイステーションに変わることで、これまでの2D画面から3Dに変わることに強い違和感を覚えたものの、遊び始めてみれば神様を15ターンだか10ターンだかで倒せる程度まではやり込んだ。この頃にはドラクエの〈色〉みたいな概念を理解できるようになっていたし、複雑さを増していくゲーム界隈においてやや時代遅れとされていたターン性の戦闘システムや王道すぎるストーリーにも親しみを感じていた。ただ、同時に違和感も感じ始めていたと思う。武器や呪文の名前に単純な英単語が増えてきたのがなんだかイヤだった。ドラクエでバスタードソードなんか見たくはなかったし、コーラルレインなんて呪文を使いたくもなかった。そこには間違った和洋折衷の気配があった。

 違和感はドラクエ8で爆発する。PS2のスペックを活かした完全な3Dマップと操作性は一目で「これはドラクエではない」というノーを私に突きつけた。ゲーム雑誌で見た開発中の写真にも違和感があったし、いざ遊び始めたときにも強い忌避感があった。画面に奥行きがあるのに、主人公たちはバカみたいに一列に横に並んで敵と対峙しているのだ。

 

 なんか長くなってしまったので続く。

 と言っても、8割喋ってしまったが。でも今日はここまで。