でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

私とドラゴンクエスト 続き

 前後編にするほど大した話でもないのだが、昨日の話は書いているうちに興ざめしてしまって最後まで書く力を収斂することができなくなった。書いているあいだに吐き出したいものがすっきりしてしまって、この文章群は結局すっきりするための行為が生み出した副産物に過ぎず、そうしたものを発信することに後ろめたい気持ちになることは昨日の件に限らず多々あることだ。

 正直、読書感想ですらそうした気分になるのだから寄る辺のない、ただの文句や思い出話ともなればその傾向は一層強まる。大抵はあらかた書いたところで消してしまうのだが(それに対して惜しいとも思わないし、むしろ正しい判断をしたと胸をなで下ろす場合が多い)数少ない友人が「アウトプットを滞らせるべきではない」とか「自己検閲による排斥が一番ダメだ」と袖を掴んでくるので、しばらくはその警句に従おうと思っている。

 

 さて、ドラクエ8まで話が進んだんだったか。最初こそ拒否反応を示したものの結局は最後までプレイしたし、いまとなってはシリーズ屈指の傑作だと思っている。王道ながらほどよく練られたストーリーと世界観、既存の作品から挿入される概念やBGMもニヤリとさせる上手い使い方がされており、スキルシステムなどの成長要素も新鮮味は薄いものの周回プレイの余興としては楽しめた。

 特筆したいのは冒険感だった。フィールドマップを散策する楽しみは新しいドラゴンクエストの強みとして十分な面白味があった。ここが既存のドラクエシリーズからもっとも進化した部分だったと言ってもいいだろう。スーパーファミコン以前の作品では真上から鳥瞰したフィールドマップを歩き回るスタイルだったのが、主人公の後ろからカメラが追う第三者視点になることで、世界がより近しいものとして感じることができるようになった。ドラクエ7ではパズルが埋まるように世界地図が構成されていく手法だったために広さや冒険の概念が薄く感じられたこともあり、非常に新鮮に感じたのを覚えている。明らかに勝ち目のなさそうなモンスターが最序盤のフィールドをうろうろしていたり、起伏のある地形の裏側に宝箱があるようなお遊びも楽しかった。

 ドラクエ11では同じような構成を取りながらも、中規模のマップを接続することがマイナスになったように思う。マップの端が明らかに不自然な洞窟や巨大な橋で区切られており、つまるところやや大きめのダンジョンがつなぎ合わさっているだけというのは〈世界を股に掛ける冒険〉と呼ぶにはスケールが小さい。こうした中途半端な広さの概念は活かせる場合も多いのだが、ドラクエシリーズは物語が大きすぎるために持て余しているように思う。外伝的な作品になるがドラゴンクエストヒーローズ2は後半で出てくる国などは隣国同士の入口が300メートルくらいしか離れておらず、その入口も立て札が一枚立っているだけというお粗末さである。

 

 月日は流れる。ドラクエ9が出る頃には私は社会人になっていた。仕事という時間的な制限ができたこともあり、この頃はテレビゲームとは少し距離を置いた生活をしていた。携帯機ならではの機能には特に興味を抱けなかったことと、なによりDSを持っていなかったこともあってドラクエ9にはまったく触れていない。転職を重ねながら強くなるシステムであることは小耳に挟んだが、そうしたジョブチェンジ的な育成システムはFFの分野だろうと思っていたため魅力とは感じなかった。

 そんな触ってすらいないドラクエ9で印象に残っているのは上級呪文の名前のダサさだ。ドラクエといえば最強魔法は決まっている。メラゾーマベギラゴンマヒャドイオナズンバギクロスだ。たぶん死ぬまで覚えている。ドラクエ6で実装された特技システムに必殺技としてのお株を奪われる形で弱体化したとはいえ、その独特のネーミングと過去作品での活躍、なにより漫画『ダイの大冒険』が与えたインパクトは大きく、呪文の語感と存在感はドラクエの根幹を支えるものとして強く作用していた。

 9ではその最上位呪文にさらに上の威力を持った呪文が追加されたのだが、そのネーミングセンスがいただけなかった。非常にいただけなかった。絶対にいただけなかった。せめて中位と上位のあいだに挟むかたちで新規投入するのであれば、まだ情状酌量の余地もあったと思うのだが、それもいまとなっては遅い。このまま千文字くらい悪口を書けるのだがさすがに無益すぎるのでやめておく。とにかく、誰が考えて誰が実装したのか知らないが責任者を私は呪っている。

 

 ドラクエ10も例によって触っていない。興味が持てない理由は9とほぼ一緒だ。ゲームハードを所有していないことと、根幹システムに魅力を見出せないこと。個人的には古き良き世界観のドラゴンクエストが、オンラインを前提としたゲームになることに強い違和感があった。勇者と魔王というほぼ完成された閉じた世界に、自分以外の人間が干渉してくることが不自然であり不必要だと思えたのだ。もちろん私は9も10も遊んでいないので、そこら辺の整合性や感覚がどのように整理されているのかはわからない。遊んでみたら面白いのかもしれないし、新しい発見もあるかもしれない。だが、そうしたゲームは他にもあるし、なにもドラクエでそれをやらなくてもいいや、というのが正直な意見なのだ。

 そして昨年、ドラクエ11のCMを見た。それは待望の〈閉じた〉ドラゴンクエストだった。

 

 話は昨日の記事の冒頭に繋がる。遊んでみたけれど、そこには物足りないドラクエ風のRPGを見出すことしかできなかった。別のゲームで散々やられてきたことがドラクエの世界でできるだけだったし、私はそれでは満足できなかったのだ。

 まだずいぶん先のことになると思うが、12のナンバリングタイトルが出るとしても私はそれを遊ぼうとは思わないだろう。過去作品のリメイクを遊ぶことはあるかもしれないが、ようはそれで十分ということだ。

 

 取り止めがなくなってしまった。ドラゴンクエストが私に与えた影響は非常に大きいし、新作に期待することはなくなったとはいえシリーズが大好きなことに変わりはない。すれ違う車のダッシュボードにスライムのぬいぐるみがあればガン見するし、はぐれメタルキラーマシンのフィギュアを購入したりもする。はがねのつるぎ、ベギラマなどの単語は目にするだけで少しテンションが上がる。

 結局、私にはすでに人生一回分のドラクエが間に合ってしまったのだ。もうお腹いっぱいだからこれ以上食べることはできない、というふうに最初から解釈していれば、食べ残した料理に対してここまで長々と文句を垂れる必要もなかっただろう。この比喩が正しいとすれば、そのうち腹が空いてくる可能性は否定できないが。