でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『21世紀の楕円幻想論』平川克美

 久々の読書感想だが読書自体は順調に続けており、ここ最近は図書館で毎日2、3冊は読んでいる。ただ大半が来月からの仕事に関するものなので、ここに感想を書くのはどうかと思って控えている。なにより雇用先から紹介されたリストに乗っ取って読んでいるので、タイトルを列挙することによる身バレが怖い。Twitterでもこちらでも行儀の良い文章や思想を書いているとは言い難いので、SNSでは現実の私への足が着かないように気を配っている。匿名性を利用しながら高い公共性を維持するという欲求の奇妙な二面性については考察したら面白そうだ。

 

 閑話休題

 趣味の範囲で選択して手に取った本だったが、一般教養の範疇を越えて思想論や倫理学としても興味深い内容だった。

 現存の資本主義経済を基盤とする社会システムの隆盛により、すべての価値判断の中心に据えられることになった貨幣経済に対するこれからの付き合い方、並びに同時に台頭した新自由主義への批判を〈負債〉という観点から読み解いていく。さらに、インターネットの発達により情報の取捨選択が個人の裁量に委ねられる場面が多くなったことや、富の貯蓄によって分断された階級が登場する現在の極論的な思考や観念への考察も面白い。

 いささか難しそうな書き方をしてしまったが、本文は極めて平易な文章で書かれており読み進めるのは難しくない。そもそも本の成り立ちが、著者が編集者を前に語るという形式で現れたアイディアを纏める、という形を取っているため表現や比喩が直接的で論者自らの体験談もあいまって非常にとっつきやすい。それでいて時折挟まれる引用は古典文学から現代思想家の評論まで幅広く、上述の論点も終始明確であるため居酒屋談義のような無責任さは毛頭ない。

 

 著者は経営していた会社を畳み、その際に生じた借金を返すことになった。そのために家を売り、定期預金を解約するなどして全財産を失ってしまう。その〈なにもなくなった〉状態に奇妙な安寧と心地よさを感じ、同時に様々なやる気も失ってしまったと話す。この〈負債〉という関係性から解き放たれた自由な感覚の正体はなんなのか、これまで自分が生活してきた社会との関係性とはなんだったのか、という疑問を出発点として本書は進んでいく。

 詳しい内容は割愛するが(是非読んでもらいたいので)少し要点を纏める。興味深い論点はたくさんあるのだが特に全般に渡って見受けられるのは、現在幅を利かせている資本主義、市場原理主義的な考え方は、経済成長の只中にあった〈強い勝者と弱い勝者〉が生まれるような時代には極めて効率的に機能したけども、現在のような定常的な社会においては機能不全を起こしている、という指摘である。

 戦後の経済発展が起こるまで、人類史の大半において人間が〈個〉をここまで意識した時代はほとんどなかったと著者は考える。近代までの長い間、人間にとって自分が生きることと自分を含む共同体が生きることは強い相互関係を持っており、それは相互扶助の社会を必然としていた。自分が生きることは共同体に生かされることであるという物質的な制約が強く存在し、それが様々なモラルや行動規範となっていた。ところが貨幣経済の発達によって富の貯蓄が可能となり、その効率を追求する中でヒエラルキーが拡大し相互扶助の関係性が薄れていった。合理性の尊重や利己的であることなど人間の本質だと考えられているような性質は、実は比較的新しい経済システムの中で最適化された概念であって、本来の人間の生き方に必ずしも適合した性格ではない。歪みの大きくなった貨幣経済が招く富の一極集中は、周縁部の死から共同体全体の衰退に繋がる。それに歯止めをかけるには、長らく人類が継承してきた共同体としての自分と社会をマネジメントする生き方と能力ーー正しいモラルの在り方を見つめ直す必要があると筆者は説く。

 

 筆者が語りかけていることは、タイトルの通り〈頂点を二つ持つ楕円〉が人間の在り方だということに帰結する。ある意見と対立するもう一つの意見は、接点を持たない独立した真円としてあるのではなく、大きな楕円として存在し、安定した形を目指すべきだという考え方だ。黄金比に見られるように人間は真円の美しさに本能的に惹かれ、それこそが真の姿だという理想像を描いている。しかし、それを希求するあまりもう片方の頂点を切り捨てることや抹殺することは必ずしも正しい選択とは言えないという。

 現在の社会でニュースを賑わせているような性急な議論に対して、本書が語る内容は机上の理想論であり思考実験めいた言葉遊びに過ぎないと一笑に付されるかもしれない。筆者は様々な判断において立ち止まること、逡巡することが生む想像力こそが人類の助けになると期待するが、多くの問題と切り結ぶ外交や接遇の境界面において、そうした意識が直接的にプラスに作用することは少ないだろう。

 しかし同じ選択が下されたとしても、最初から別の頂点を考えもしないで切り捨ててしまった人と、それを気にかけながらどこかに抱いたままでいる人とではその後に現れるであろう無数の選択肢の中で、自分と自分を含む共同体に対する反応にはいずれ大きな違いが出てくるはずだ。多くの人にとってためになるような選択とはなにか、常に逡巡できるアタマを持つことは無意味ではあるまい。