でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

手帳を買った

 電車の接続時間を待つあいだ、本屋をぶらぶらしていたら手帳の特設コーナーを発見した。以前の職場では会議や出張はあったものの、多くても月に数回、運悪く集中して週に2回程度だったのでタスク管理はさほど必要がなかった。それでも格好付けたくて何年か手帳を持ち歩いたことはあったが、あまりに出番がなくていつしか持つのをやめてしまった。その後退職まで、私の仕事量では卓上カレンダーがあれば十分だった。

 さて、この春からはどうだろう。覚えることはおそらく多いだろうし、新しく出会う人も膨大な数になる。手帳にスケジュールを書き込むほど忙しくなるかはわからないが、メモ帳代わりにそういう物を持ち歩くのは悪くないように思える。少し迷ったがシンプルなビジネス手帳を購入した。使わなかったら日記帳にすればよい。

 

 こうして書いているブログも元を辿ればweb-log、日記である。ただしインターネット上に公開する以上、それは第三者が目にすることを前提としている。より魂胆に近い部分を言えば、内容に共感し、支持してくれる人が現れることを期待した存在になっている。それは本来の、極めて個人的なカテゴリーに属する日記という本分からはかけ離れた性質を持っている。おそらく内省的な側面を持つ日記本来の性質よりは、創作に近いエンタメ性や自己表現へと舵を切ることになる。よくドラマに出てくる表紙に南京錠を据えたような日記帳と、こうして世界中に公開されることをヨシとするブログでは書き手が挑む姿勢自体が違ってくるし、情報の取捨選択に対する態度もずいぶん違ってくるだろう。

 端的に言えば、ブログには本当のことは書けない。私の場合、読書感想は95%くらいは本心を書いているが、それでも飲み込んでいる言葉や感情はないわけではない。自分が醜く受け取られるようなこと、後々言質を取られたら厄介なことになりそうなこと、知人に知られたら恥ずかしくなるような極めてパーソナルなこと、自分が特定されるような特殊性の高い物事など、本来であれば日記に書き記しておくべきことは、少なくとも私の場合ブログに書くことはない。

 かと言って嘘を書いているわけでもない。あくまで余所行きの格好をしているというだけだ。すっぽんぽんだと恥ずかしいので服を着ています、ぐらいの変化だと思う。だからこのブログを読んでいる人が推察する私の人物像は、おそらくそんなに的外れなものではないだろう。しかしケツに蒙古斑があるかまではわからない。そんな感じだ。どんな感じだ。

 

 すっぽんぽんでない文章には、どこまで存在価値があるのだろう?

 私は最近になってブログをだらだらと更新するようになったが、何度「今日の文章はヒドイから消しちゃおう」と思ったかわからない。剥き出しの日記を晒せるほど自分の生き方に確信がなく、着飾った自分を見せられるほどコーディネイトに自信もない。自己検閲する部分が待ったをかける回数は非常に多いのだが、それでもアウトプットというのはバシッと出してしまわないことには99%完成もゼロも一緒なんですぜ、と自分を励ましてせっせと文章を書いている。

 唯一救いがあるとすれば、文章に対して少なからず向上心があることだろうか。どこまで気持ちよく、淀みなく、自分の内情をうまく吐露できるか。そのテクニックを磨くだけでも相当な研鑽が必要だろう。それを追求してなんになるのか、は趣味全般に対して無益な質問である。それが勝機か。