でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

秋田県民と県民歌

 秋田では県民歌を耳にする機会が多い。私が高校卒業と共に故郷を離れたときには「式典でときどき聴いた覚えがあるなあ」程度だったと思うのだが、15年の間になにがあったのだろう。単に私が鈍感だっただけで昔からそこかしこで歌われていたのだろうか。経緯はよくわからない。

 

 最近の例で言うと、春のセンバツ高校野球に出場した由利工業高校の応援中にスタンドで流れていた。県民歌はスポーツとの関わりが深く、プロバスケットボールリーグの秋田ノーザンハピネッツサッカーJ3ブラウブリッツ秋田の試合で士気を高めるべく歌われている。どちらもチームと観客が一体となって応援歌のように大合唱をするのでかなり迫力がある。

 他に、有名な大曲の花火大会では、フィナーレに県民歌が挿入された曲に合わせて花火が打ち上げられる。聴いたことがある、という県外の人はおそらくこの花火大会で耳にしたのだと思う。NHKが中継してくれるようになってからは映像と一緒にお茶の間に流れる機会も増えたはずだ。ここで流れる曲は地元、大曲出身のシンガーソングライター津雲優氏の『いざないの街』という歌なのだが、曲の後半がそのまま県民歌になっている。

 

 秋田県は人口減や自殺者数など暗いニュースや不名誉な記録ばかりが有名(だと少なくとも県民は思っている)であるが、地元スポーツチームの活躍や世界からも注目される花火大会はささくれた自尊心を強く慰撫してくれる存在である。そして県民歌の歌詞には鳥海山男鹿半島田沢湖などの名所が鮮やかに描かれ、豊かな風土やそこにあった営みを勇壮に歌い上げている。この相乗効果が実際に改めて県民になってみると、存外心強く、心地良い。

 私は団結とか絆とかいう言葉があまり好きではなくて、そうした身内同士の強い結びつきは同じ強さの排斥力を否応無しに生むものとして忌避している。一方で貨幣経済新自由主義による歪んでしまった社会の格差を埋めるためには、かつて機能していた相互扶助的な人間の繋がりを再び暖めなければなるまいとも思っている。そうしたギブアンドテイクでもなく相互監視でもない、信頼や共存を前提とした緩く、それでいて力強い底支えのような機能を、県民歌は局所的・限定的にではあるが与えてくれるように思う。

 

 県民歌の歌詞のように秋田の環境は素敵なことばかりではない。むしろ早急に着手しなければならない問題が山積しているし、そこには少なくない痛苦があることは間違いない。

 それでも県民歌を歌う、聴くことによって故郷の姿とその理想像を確認でき、それを共有することができるというのは、この地で生きていかなければならない人間にとって心強いことだ。せいぜい励ましてもらおう。