でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『鍵の掛かった男』有栖川有栖

※以下、ミステリー作品の内容に関する言及があります。

 

 日本ミステリー界の巨匠が放つ長編作品。最高傑作との評価も聞こえるだけあって、さすがに面白かった。大満足の作品である。それゆえ、そんなに書くことがない。それでいいのか、私の読書感想。

 ちなみに私は読書感想を、だいたい2,000字を目安に書いている。一般的な「普通に面白かった」作品はこのくらい書くのが一番ラクなのだが、すごく面白かったり全然面白くなかったりするとこのハードルは意外に高い。原稿用紙5枚ぶんも褒めそやすには語彙が足りないし、同じぶん文句を垂れるのは簡単だが罵詈雑言は並べるほうも精神がめげる。本作は良い意味で、長文にしづらい。もちろん、喜ぶべきことなのだが。

 

 さて、物語は一人の男性がホテルで変死体となって発見される事件から幕を開ける。スイートルームに5年間も住み続けたその男は、ある日その部屋で縊死を遂げた。自殺として処理されたこの事件に、彼と親交のあった人々が疑問を抱く。その中にある有名作家がいたために、我らが有栖川有栖先生に事件の真相を解明すべく依頼がなされるのであった。

 ううむ。この強引な展開も歴戦の著者でなくては難しい芸当であろう。そしてこの導入部分こそ、このミステリーの面白さを裏付ける要因になっている。

 

 本作の面白いところは、事件の発生に探偵が居合わせないところにある。否、そもそも〈事件〉すら、厳密には発生していなかった。すでに自殺として処理された案件に、たまたま不信感を抱く人が現れたために「この自殺騒動は、果たして事件なのか?」という疑問から物語がスタートする。

 与えられた手掛かりが極めて少ない状態から始まる今作は、被害者(かどうかもわからない変死者)が何者であったのか、を探ることにほとんどすべてを費やす。この構成が実に面白い。無骨でいて王道、知的好奇心をくすぐる『鍵の掛かった男』というタイトルに相応しく、この男の正体を探る冒険が本書の醍醐味だ。

 男の正体は何者なのか、なぜホテルのスイートルームに5年間も住み続けたのか、奇妙な生活の中で次第に浮かび上がる点と線、偶然と思われていた関係性に潜んでいた必然の正体。そうした難しいコブ結びの紐が少しずつ緩み、真相が明らかになっていく展開は誇張なしにページを捲る指がもどかしいほどだった。

 

 事件かどうかも定かでない首吊り事件と、素性のさっぱり知れない死者を巡ってストーリーが進んでいく展開は、宮部みゆきの『火車』を思い出させた。

 この作品も稀に見る傑作だったが(この作品が直木賞を逃したのを知ってから、私は直木賞の存在について懐疑的である)、こちらは犯人の姿が最後まで見えてこない。犯人の姿がわからないのは当たり前じゃねーか、と思われるかもしれないが、犯人の意図や動機など〈そちら側〉が一切明かされない作品なのである。

 刑事と弁護士(だったかな)が事件を追う道中で、犯人の人生や犯行に至る経緯が次第に明らかになるのだが、犯人側の視点や言葉が作品に盛り込まれることは最後までない。つまり、解決パートがない。あるのは、事件と、それを追う人間の姿だ。そして、その構図が刺さるほどのリアリティを産んでいる。推理小説という、完全な俯瞰、言わば神の視点から描かれることの多かったジャンルにおいて、犯人には最後の最後まで外堀から埋められていった、輪郭としての存在しか与えられていない。

 作品は、犯人の肩に手を置くシーンで終わる。この情緒。この物語性。こうして思い出していても震えがくる。あんなに美しく、読者に〈その後〉を委ねながらもすべてを描ききった作品は他にない。

 

 この『鍵の掛かった男』は、最後まで〈被害者〉の姿が見えない作品と言えよう。ホテルで縊死した男。その過去を少しずつ明らかにしていく一方で、なぜホテルに住み続けたのか、なぜこのような変死を遂げたのかは終盤まで深い霧に閉ざされたままだ。

 文庫本で700ページを超える長編だが、その道のりの最後には見事な決着が用意されている。霧は見事に晴れ、自分が読み進めてきた道はかくも明瞭な風景であったかと呆然とするほどだ。この芸当はさすがとしか言いようがない。

 また、作中で探偵役を務める有栖川と火村のやりとりがいつも以上に砕けていて面白かった。事件の舞台である大阪の中之島をあちこち動き回るのだが、風景描写が丁寧で旅行記のような趣きも楽しめる贅沢な一品だった。

 一応シリーズ物の作品ではあるが、本作から読み始めても不具合は一切ない。むしろ著者の持ち味が随所に出ていて1ページたりとも退屈させない理想的な作品だと思う。

 やっぱりミステリーは面白いや、と大きな溜め息を吐かざるをえない、壮大で緻密な作品である。時間をたっぷり取って、一気読みするのがよろしかろう。