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読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『本と鍵の季節』米澤穂信

昨年末に発売となった米澤穂信の新刊。図書委員に所属する高校2年生の主人公とその友人のコンビが、図書室を発端とする様々なミステリーに挑んでいく作品。設定こそ著者の大ヒット作であり代名詞とも言える〈古典部シリーズ〉を彷彿とさせるが、読み始めると味付けはかなり異なっていることに気付く。

まず、今作にはヒロインが存在しない。というか終始、女っ気がない。最初のエピソードにこそ主人公と縁のある女生徒が登場するが、それも端役でしかない。登場人物は主人公と、同じく図書委員の友人のみ。友人とのマンツーマンという最小単位の人付き合いを通して図書室からスタートするミステリーは次第に拡大し、最終章に掛けてちょっとした冒険へと変貌していく。

そして終盤、最大の謎は不思議な友人の過去そのものになるのだが……。

 

という感じで、最後まで楽しく読み終えることができた作品。やはり著者の作品は、ミステリー側に軸足が乗っているときは抜群に面白い。サスペンスに重心が傾くと、どうも戯画的というかお伽話感が強く出すぎて、ミステリーの説得力がなくなってしまう印象がある。

ミステリーとは言ってもハートウォーミングな作品がほとんどだろうと思っていたが、なかなかどうして、作者の底意地の悪さが炸裂している。最初の物語である『913』から、学園ミステリーにしてはかなりブラックな着地を見せており、一気に作品に飲まれてしまった。

殺人事件などの血なまぐさい事件こそ起きないものの、各ストーリーで提示される悪意や秘密には、かえって身近で奇妙な親密さが感じられることもあり、それがほどよく不気味で魅力になっている。分相応をわきまえた学生生活ゆえ大きな危険にこそ巡り合わないが、予期せぬ不穏な事象に出くわしたときには無力さに歯噛みするような、読者をやきもきさせる構成もさすが。

そんな中で、物語を牽引する探偵役であり相棒でもある友人〈松倉詩門〉。高校生にしては妙に老成した友人のキャラクター自体が、最後の謎として主人公の前に立ち塞がる事になる。

 

著者の作品では『さよなら妖精』においても、高校生という立場ゆえに手を伸ばすことすらできなかった〈謎〉への苛立ちや、これから先に茫洋と広がる未来に対する不安が意識的に描かれていた。また、『王とサーカス』のテーマでもあった、知ることや謎を解くことを興味本位に行う態度の功罪についての追求などは、本作においても表現は違うながらもじっとりと存在感を現している。

本作の主人公も他の米澤作品と同じくドライな性格ではあるが、友人を大切に思う姿勢や態度などは、照れ臭そうにしながらも隠そうとはしない素直さも持ち合わせている。主要な登場人物を最小限としたことで、二人の関係や人物像の変化などがダイナミックに感じられるため、青春小説としての面白味には他作品とは少し違った趣があった。

 

余談を少し。

この作品は非常に綺麗に終わっており、おそらく続編やスピンオフが作られることはない。再三書いているように登場人物が少ない上に、二人の関係性によって物語が構成されているため、本作の決着を見る限りでは〈その後〉を描くのは無粋だろうという気がしている。

魅力的なキャラクターや舞台環境は、その世界を広げたり時間軸を進めたり戻したりしながら活躍の範囲を大きくする傾向がある。いわゆるシリーズものになっていくわけだ。

しかし、本作は登場人物が高校生でありながら、その将来も、あるいは過去も物語としての広がりを持ってはいない。高校2年生という1年間。それも二人の友人関係という繋がりをストーリーとして組み上げているためだ。この点を、私はとても面白いと感じている。

 

本作を通じて、最終的に主人公と松倉詩門は親友と呼べる間柄になった(これはネタバレだったかもしれない。本作の面白さに影響するものではないのでご容赦)。最初のエピソードから最後の会話までは、知人から友人の状態で進んでいる物語といえる。そこには物語としての様々な広がりがあり、可能性が存在していた。

ところがこの作品を読み終えたとき、友人関係が理想的な昇華を見せたとき、物語は〈終わって〉しまうのである。仮にこの先、親友となった二人が別の他者と関わるミステリー風のエピソードがあったとしても、そこには新鮮味や面白さを見出すことが難しいような気がする(これでしれっと続編を描かれたらこの記事は消そう)。

 

学生という狭い世界、友人という比較的弱い繋がり、その矮小さが大きなものになったとき、物語の幅はぐんと広がっていいはずだ。いや、実際に広がっているはずだ。ではなぜ、物語が感覚的に終わってしまうのだろうか。

ようは、〈狭い世界〉しか、物語にはならないのではないだろうか。

窮屈な枠を与えられた状態、限られたリソースで特定の問題に対処する状態、制限の中でベストを尽くそうとする状態。そうした状態は物語として、十分に表現され、読み解くことができよう。

逆に、そうした限定条件が存在しない、自由でどこにでも行けるという理想的な環境には〈物語〉が存在しないのではないか。描くことができないのか、そもそも必要としないのか、あるいは私がなにかを見落として妙な妄想にひた走っているのか。

取り止めがなくなってきたのでまとめてしまうが、空想は不自由を担保としていて、そんなに自由じゃないんじゃないか、と思った次第である。

 

うむ。全然読書感想じゃなくなった。