でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

県民市民参加型ミュージカル『欅の記憶・蓮のトキメキ』に出演して

 昨年の3月に初めて稽古に顔を出してから、正確には「最初の稽古でこの曲を歌ってもらうので練習してきてください」という課題曲付きのメールを受け取ってからの約10か月、生活の片隅にはいつもミュージカルがあった。職場への道中は劇中歌を聴き、寝る前には動画を見て振付を思い出し、次回の稽古ではなにが見られるのかと週末を楽しみにしながら日々を送っていた。
 では、本番を終えて集団が解散してからどうなったのかというと、実のところあまり変わった印象は受けない。いまだにミュージカルのことは生活の中にさまざまな痕跡を残していて、些細なことから舞台の光景を思い出させてくれている。劇中歌は鼻歌になって自然と出るし、慣れないダンスでケガをしないためにと始めた柔軟や、声出しのために肩甲骨を動かす体操は日課になっている。酒を飲んで愉快になれば踊り出すようにもなった(外ではやらないが)。
 嬉しいことに、仲良くなった出演者の方や舞台をきっかけに声をかけてくれた方との交流は、SNSや休日のイベントを通じてむしろ活発になっている。舞台は終わってしまったが、このミュージカルがきっかけになって動き出した「なにか」は、依然私の中では熱を失わずに回り続けているようだ。

 この振り返りは舞台を終えた直後に(それこそ1月15日の夜に)書き始めたのだが、そのときは感情が強弱も方向性も時間軸も無視した奔流になっており、関係者のちょっとした仕草や言葉を思い出すたびにメソメソしてしまって文章がまとまらなかった。数日経って少し落ち着いてから、ちくちくと書き出し始めて、ようやくいまになって最後まで書けたので軽く推敲して公開した次第である。
 少しずつ薄れていく思いもあれば、逆に日増しに強まっていくものもあって、印象はこれからも自分の中で変わり続けていくのだろう。ここに書いたことも後からひっくり返したくなるかもしれない。そのときはまた、言葉を垂れ流そうと思う。

 では、少々長いアバンになってしまったが、このミュージカルのことを自分なりに振り返ってみよう。なお、私個人の備忘録として書き記したもので、第三者に読んでもらうことの意識は次点となっているため、全体的にかなり読みにくいものになっているであろうことをお断りしておく。ご容赦を。

 

 さて、私がこのミュージカルの出演者募集に気がついたのは昨年の2月、追加募集の段階になってだった。最初の募集を見落としており、すっかり出遅れてしまった……と思っていたのだが、新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受けて当初予定していたワークショップが思うように開催できず、それほど稽古の回数に差があるわけではないことを後になって聞いた。あまりほかの参加者に置いて行かれずに済みそうだ、とほっとした。
 応募用紙の動機には「やりたかったことに挑戦する絶好の機会だと思った」と書いた。経験を書く欄には書けるようなものはなにもなく、ほとんどのことが初体験になるに違いなかった。言葉通り、挑戦になるな、と思っていた。
 しかし、その道は挑戦と呼ぶにはひたすら楽しいままで最後まで突き抜けていくことを、当時の私は知らなかった。本当にありがたいことに。

 3月から4月にかけてはワークショップで出演者同士の自己紹介、歌唱やダンスの基礎練習が数回あった。もともと運動神経が良くないのでダンスは心配していたが想像以上に身体が動かせず、キビキビとステップを踏むメンバーを眺めながら、おじさんの出演者同士で「いやあ、動けないですなあ」などと話していたのを憶えている。
 マゴマゴしているおじさんを見兼ねてか、振付指導の新海先生から「頭で考えすぎて動きを止めてしまうのが一番ダメ。身体を動かして表現を続けること。間違っていたら次回で修正すれば良い」と、声をかけていただいた。
 その後の稽古からはそれを意識して練習することで、完成度は低くても不自然ではない程度には動けるようになったのではないかと思う(それにだってかなり熱心に練習する必要があったが)。私のような素人にも根気強く、さまざまなアプローチで教えてくださったことに心から感謝している。新海先生だけでなく、今回のミュージカルの講師や事務局の方からは、出演者がいかにモチベーションを失わずに本番を迎えられるかに心を砕いていただいたように思う。本当にありがたかった。

 5月には、全員集まってのキャスト発表が行われた。あのときの衝撃というか「えらいことになった」感覚は、いまでも思い出すと楽しい気分になれる。ご存知のとおり、私の配役は【東海林太郎】に決まった。
 ちなみに同時に決まったチンピラは、当初は順列がなく(単にチンピラ1〜4みたいな感じ)組長の概念もきりたんぽ組の名前もなかった。いまでは『お堀でロック』と『ケ・セラ・セラ』を歌ったチンピラにも強い愛着があり、もっと舞台で写真を撮っておけばよかったと少し後悔している(東海林太郎姿ではそれなりに撮ったが、チンピラ姿はほとんどない。すぐ着替えちゃうからね)。

 キャスト発表時には東海林太郎のことをほとんど知らなかったため、その役を仰せつかったことには率直に言って慌てた。直立不動で歌う人、出勤途中に見かける東海林太郎音楽館の看板が目に入ること、そのくらいしか引き出しがなかったので早速情報収集を始めた。
 iTunesで『赤城の子守唄』を購入し、関係する音楽番組のアーカイブを視聴し、東海林太郎音楽館を訪ねて資料に目を通しながら館員の方からお話を伺った。脚本家でわらび座の栗城先生からは『ミュージカル東海林太郎伝説』の記録映像をお借りすることもできた。
 東海林太郎の生涯を学ぶことは、戦前から戦後にかけての歴史を学び直すことにも繋がっていて、ミュージカルの題材に留まらない刺激を受けた。これは今回の脚本で【渋江内膳政光】について調べたときにも感じたことだが、このミュージカルに関わること自体が地元への愛着と学びへの求心力を高めるきっかけになり、地元のニュースや出来事に対してのアンテナ感度が強くなった。市内や県内の面白そうな催しに気がつくことが増えたのは、今後の人生を有意義にしてくれるだろう。
 さらに嬉しいことに、舞台では『ミュージカル東海林太郎伝説』で主演を務めた高野さんが着用していた衣装をそのまま貸していただけることになった。緊張しつつも気分はすっかり東海林太郎で、本番でも気持ちよく歌うことができた。ハスの精と一緒に拍手してくれたみなさん、ありがとうございました。最高の気分でした。

 個人的な反省点として、本格的な衣装に身を包んだことで「なりきろう」という意識が強く出過ぎてしまったことが心残りになっている。
 それまでの稽古や音楽館でお話を伺ったことで、私なりに『赤城の子守唄』を歌うための心構えや直立不動であることの意義を掴んでいたはずだった。それが、わらび座仕込みのメイクと衣装で見た目がすっかり東海林太郎に似てしまったものだから(我ながら鏡を見るのが面白かった)さらに姿形を似せようと意識してしまい、努めて無表情で歌おうと思ってしまったのである。目指すべきは、闘志を秘めて一尺四方の戦場で戦う顔だった。その思い違いが、歌の響きにも出てしまったような気がして、いまだに悔いている。この気持ちはいつか、なにかの形でリベンジにつなげたい。

 キャスト発表後の6月の稽古からは、いよいよ台本に沿った演技が始まることになった。いまは閉館してしまった秋田市文化会館の大会議室、そこで演出の畑澤先生が演技指導をする現場に立ち会ったときの感動は忘れられない。あまりに面白かったので、その後の稽古は出番の有無に関わらず出られるものはすべて出席しようと決めた。
 台本に書かれたシーンを演者は演者なりに考えて演じる。そこに畑澤先生が袖からの出方はこうしよう、こういう動きを入れよう、視線や身体の向きはこっち、そのセリフはもっと……とさまざまな指示や指摘を加えると、場面がどんどん生き生きとしてくるのだ。演者の顔付きも次第に変わってくる。文字どおり「輝いて見えて」くるのだ。演技の稽古は自分がやるのも面白かったが、見ているのも同じかそれ以上に面白かった。
 自分が登場するのはコメディタッチのシーンが多く、畑澤先生は稽古の様子を見ているときに面白いシーンではよく大きな声で笑われた。それを目指して、私は演技と歌唱に熱を入れていた。残念ながら自分のセリフは尺の都合で大幅に削られてしまったが、今回体験した指導が活かせるよう、また別の機会を探して実践したい。

 同じ頃から歌唱指導も本格化した。全員で歌うミュージカル曲は【勝負所】と位置付けられ、特に冒頭で披露する全員が舞台に登場する曲と、終盤のメドレーは入念な練習が繰り返された。
 私はカラオケが好きで、ひとりカラオケにもよく繰り出す。前職の青果市場では大きな声を出すことは日常業務の一部であったし、きちんとした指導を受けたことはないが声量や音感には多少自負があった。果たせるかな、早々にその自信はぽきりと折られ、謙虚な気持ちで稽古に臨むことになる(結果的には、もちろんそれでよかった)。
 音楽監督の渡部さん、歌唱指導の茂木先生からは発声法、姿勢、呼吸法、重心の位置、歌う前のストレッチ、声を美しくするための日々の調整方法などなど、技術や意識を含めてたくさんのことを学ばせていただいた。出演者にはジャズシンガーやボイストレーナーもおり(ホントにタレントが揃っていた。なんなんだこの素人たち?)同様に技術を勉強させてもらった。自分がいかに井の中の蛙だったかを知って、粛々と練習に努めた。歌うことは好きなので、今後も舞台やステージで歌声を披露することを目標に自己鍛錬を続けたい。

 演技も歌唱もダンスも、稽古はいつも楽しかった。いまだに、もう稽古がない週末を寂しく思っている。合同稽古がないときは、有志で自主稽古が開催され、そちらにもよく顔を出させてもらった。事務局開催の稽古だけではなかなか完成度を上げきれない私のような素人にとっては本当にありがたかった。主催者となって取りまとめや調整をしてくれたBさん、ありがとう。そしてお疲れさまでした。
 このミュージカルを通じて、これまでの交友関係では知り合えなかった方々とご縁ができたこともこの上ない喜びだ。自分より年上ながら新しいことにチャレンジする気力とバイタリティを持っているベテランの方々、音楽やダンスに親しみ、楽しさや喜びを伝える力のあるパフォーマーのみなさん、表現活動をライフワークにすることを目指して経験を積もうと努力している若者たち。これからもお互いに刺激し合える関係が作っていけることを願っている。

 6月下旬にはミルハスでの稽古が始まった。新しい建物独特の空気感を味わいながら小ホールへ足を踏み入れたとき、稽古後に見学ツアーと称して舞台や楽屋を見て回ったときの高揚感も昨日のことのように思い出すことができる。
 ミルハスへ向かう途中、お堀に咲くハスの花を眺めるときの心象もずいぶん変わった。以前は何気なく風景として見ていたハスからメッセージが発せられているようで、見方が変わると環境へのアプローチもここまで違ってくるのだなと我ながら面白く感じられた。本番を迎える頃にはハスが残っていないのがとても残念で、秋を迎える頃は「お前らのぶんもがんばるからな」と、花を減らしていくハスに思いを馳せていた。

 夏には一度は落ち着きかけていた新型コロナウイルス感染症の患者数が増え始め、8月には私自身も罹患した。幸い稽古のない時期だったためほかの出演者に感染させたりということはなかったが、喉をひどく痛めてしまい、しばらく思うように歌うことができず気を揉んだ。
 私の症状は次第に回復したが「この大所帯で、本当に1月に無事に公演できるのだろうか」という不安は常に頭の片隅に居座るようになった。いち出演者、それも端役の私がこれなのだから、事務局や講師陣のストレスは如何程だったか……。改めて、無事に公演を終えられた奇跡に感謝したい。

 秋を迎える頃には、歌唱とダンスが融合し、そこに演技も加わることでミュージカルの形が見え始めた。稽古も見応えのある内容に膨らみ、週末がますます面白くなってきたとガヤの気分で喜びつつ、本番まであと何回稽古があるのかが頭をよぎることも増えた。
 この頃に有志で大仙市のドンパルまで、わらび座の『北斎マンガ』を観劇に出かけた。6月にも『ゴホン!といえば』を観にわらび劇場に出かけて大きな刺激を受けていたのだが(すっかりハマり計3回観にいった)『北斎マンガ』も全身にビリビリとくるほどパワフルで感情表現が豊かで、元気を受け取って帰路についた。
 このとき一緒に観劇に出かけた出演者の方が、間もなく体調不良で舞台を降板することになった。席が近かったので観劇後にお互い涙目で感想を語り合ったのだが、そのときの短い時間のことをずっと覚えておこうと思っている。『北斎マンガ』をミュージカルの出演メンバーと一緒に観劇できたことはもっとも印象深い出来事のひとつであり、いまでも自分を励ますための記憶の引き出しに収まっている。

 そして冬になった。秋の終わりに初めての通し稽古を行ったが、そのとき畑澤先生から厳しい評価をいただいたのが、個人的にとても嬉しかった。
 自分でも足りないなとか揃わないな、と思っていた感覚は間違いではなかったのが確認できたことと、それをなんとかしてより高みを目指そうと真剣に考えてくれていることを演出家からのメッセージとしてメンバーに共有されたことは、私にとっては記念碑的な出来事だった。あのときのNOTEは励ましと戒めのために保存し、稽古前日に読み返していた。
 あっという間に年の瀬が迫り、2022年最後の稽古も終わった。二度目の通し稽古は前回に比べるとかなり良くなったと(生意気にも)感じていたが、それでも細かいところにイマイチな部分もあって、あとは直前の稽古しかないしそれも半月近く空くし年末年始も入るし大丈夫だべか、と他人事のように思っていた。
 ただ、私自身の感覚としては、みんな一生懸命に取り組んでいるし、講師陣の指導は的確だし、音楽もダンスも素晴らしいし、脚本も演出も面白いし、なんだかんだですごい舞台になるんじゃないかしら、と楽観的に捉えていた。友人や知人にも今回のミュージカルのことを宣伝し始めていたが「絶対面白いので見にこないと損をする」と自信を持って紹介していた。あとは自分が良いコンディションで舞台を迎えることを意識した。
 こんなにたくさんの面白い人と縁ができて、この年になって「初めてやります」ということばかりのこともないだろうな、思い切って参加申込みしてよかったな、と深く思った1年だった。そして年明け早々にメインイベントがやってくる年もないな、と思いながら年を跨いだ。

 1月になってから本番が終わるまではさらにあっという間だった。ミルハス中ホールでの稽古は1分1秒が楽しくて、待機時間にも用事はないのに袖や楽屋通路をうろうろしていた。すでにこのときから「もうすぐ終わってしまうんだ」という気持ちがずっと頭のどこかにあり、一足先にロス気分になっていた。本番前の空気をいまのうちにできるだけ目一杯味わおうと、いろんなところをうろうろしていた。
 チケットの販売状況も出演者には伝わっていた。思ったより売れていないなあ、というのが出演者たちの正直な感想だったと思う。特に土曜日の販売が芳しくない。多くの人に観てほしい、観客でいっぱいの舞台に立ちたいという気持ちはみんな一緒だったので、友人知人に改めて声をかけようか、などと相談していた。
 結局この心配は杞憂に終わり、日曜日分は完売、土曜日もほぼ座席が埋まる状況になった。売れ残るどころか、チケットを確保するために事務局が神経を衰弱させるほど最後の最後にどっと注文が来たのである。なんにせよ、お客さんでいっぱいの舞台に立つことができたのは嬉しかった。
 私の友人も青森県や北海道から来てくれた。公演前後には会うことができなかったので再会したときには直接感想を聞いてみたい。それこそコロナ禍になってからはほとんど会えていないので、舞台と客席の距離はあったが元気な姿を見せられてよかったなと思っている。このお礼はいずれ、精神的に。

 本番直前のゲネプロで、わらび座の役者さんから直々に舞台用の化粧を教えてもらえることになった。舞台では正面から強くライトを当てられるため、客席からは顔がのっぺりと見えてしまうらしい。そのため、表情がしっかりと見えるように、眉や目鼻立ちをはっきりさせるメイクが必要となるそうだ(不勉強で知らなかった)。
 男性陣の集まる控え室でメイク講習が始まる。まずは化粧水、それからクリーム、ファンデーション、パフの順。その後で眉を描いたり、鼻や目元にシャドーを入れる。「そんなに変わるものかなあ」と思っていたが、そこはさすが百戦錬磨のわらび座さんだった。自分の顔ながら色気のある感じに仕上がり、燕尾服にロイド眼鏡を掛けた姿はなかなか様になっていた(と思う)。 
 忙しい中、化粧道具持参でゲネプロに本番にと協力してくださったことは本当にありがたく貴重な体験で、幸せなことだった。衣装や小道具の準備や調整にも最後まで親身になって協力していただいたわらび座さんには足を向けて寝られないと思っている。本番後はバタバタしていてきちんとお礼が言えなかったので、いつか改めて観劇と合わせて感謝を伝えに行きたい。

 本番の土日は晴天ではないものの寒気は緩んでおり、演者や観客のアクセスには影響がなかったのも幸運だった。直前の検査でも演者には感染者はなく、無事に本番を迎えることができたのも幸運としか言いようがない。
 音楽監督の渡部さんが年明け早々に陽性となってしまったことを「僕が厄を全部引き受けた!」とおっしゃっていたが、本当にそうだったとのではと感じている。体調が万全ではない中、リモートで歌唱を確認してくださり、本番前には力強いメッセージも送っていただいた。近々ご一緒できる機会があるので、たくさんお礼を伝えたい。

 ついに迎えた初日。楽屋側の入り口からミルハスに入ると、事務局からの応援メッセージと出演者それぞれが舞台で躍動している写真が迎えてくれた。ただでさえ直前の準備で忙しいだろうに、最後の最後に出演者のためにここまでしてくれる事務局に頭が下がる思いがした。絶対に良い舞台にしなくてはいけない、この恩はステージでしか返せない。始まる前から泣きそうだった。
 直前の通し稽古を終えて最終確認をし、客席が続々と埋まるのを控え室のモニターで見ながら「あと少しで終わってしまうなあ」と感傷に浸った。緊張はもちろんしていたが、それよりも終わってしまう寂しさが強かった。稽古で何度となく見てきたのに、それでも見るたびに涙腺が緩むM15やM18があと2回しか見られない。一番回数を繰り返しただけあって文字通り身体に染み付いているM2もあと2回。歌い出しの音が取れず、そこだけを何百回と聞いて歌ってを反復したメドレーもあと2回……。考えれば考えるほど寂しかった。だからこそ、舞台の上では楽しむことを意識して、それを全力で表現しようと決めていた。
 自分の一番最初の役割は、舞台袖から登場する"特別代表"のために、少しだけ緞帳を引っ張って隙間を作ることだった(それから引っ張った緞帳を押して元通りに戻すこと。緞帳は本当に重くて地味に大変)。この挨拶からすでに舞台が始まっていることに、おそらくお客さんは気づかない。本当に代表が出てきて挨拶するものだと思うだろう。せいぜい驚くがいい、とほくそ笑みながら緞帳を引いて、舞台がスタートした。

 あとはスルスルと流れるように時間が過ぎていった。本番中ずっと集中していたわけではなく、出番がなくて長い合間があるときはリラックスしていた。楽屋のモニターで舞台を眺める時間もあり、先述したM18、孝三がハスを描いて退場するシーンは両日とも楽屋で見てしっかり泣いた。メイクが崩れないように注意しながら。
 自分の出番はソロを歌う場面も、モブとして動き回る些細なところも、全力で楽しむことができた。舞台からは客席がしっかり埋まっている様子が見えたが、それ以上は客席を意識しないことにしていた(目線はある程度送っていたけど)。きちんと見てはいなかったが、広いはずの客席が手元にあるような親密さが感じられて、良い雰囲気の会場になっていることは伝わった。
 気がついたらM21、結婚式前の段取りが進んでいく様子を表現するための曲にたどり着いていた。この曲で舞台に出たら、あとはそのまま最後のメドレー、フィナーレまで一直線。だからこの曲に向けて袖で待機しているときは、はっきりと終わりを意識するのだ。
 舞台に出るタイミングを図りながら、ここまではすごく上手くいっているという確信と、ここからが本当の見せ場だぞという気合い、それからやっぱりもう終わってしまうのかという寂しさがまとめて胸中に訪れていた。舞台に出てしまえば、いろいろと余計なことを考えている余裕はない。「いま」以外に意識を向ける余裕が出てきたのは秋田県民歌を歌う段階になってだった。
 この秋田県民歌が曲者で、歌っているときに一番涙腺にくるのは実は県民歌だった。舞台上で感極まって泣くのはみっともないので絶対にそうならないように注意していたのだが(最後まで笑顔で舞台に立っていないとカッコ悪い。私は"えふりこき"なのだ)県民歌は通し稽古のときから私を苦しませてきた。とにかく泣けるのだ。たぶんこの曲のメロディーラインに本能的に弱いのだと思う。そこまで郷土愛が強い人間でもないと思うのだが、不思議なくらい泣ける。聴いているぶんにはそこまででもないが、歌っていると先人の努力やいまを懸命に生きる人々、そこから繋がっていく未来などが次々に想起されて、大河ドラマ一本分観たような気持ちになってしまう。それも、一瞬で。県民歌は完璧な泣きソングなのだ。
 しかも本番では畑澤先生の挨拶の後に歌うのだが、両日とも先生の挨拶が涙混じりに私たちへのねぎらいと力強いメッセージを発するものだから本当に危なかった。ダム決壊の数歩手前まで行った。涙目にはなっていただろうが口元の笑顔はキープできていたと思うので、そこは自分を褒めたい。よく泣かなかった。それも、この感動的な舞台で。
 カーテンコールで、全然揃っていないだろうな、と察せられる礼をして(日曜日に向けて礼のタイミングを揃える調整が行われた)初日は無事に、大成功で終わった。

 その後、簡単な打合せをして解散したが、帰り際にも嬉しいサプライズがあった。お客さんの中には出演者にプレゼントを用意してくれる人がおり、恥ずかしながら私もお花やお酒などをいただいてしまったのだ。差し入れが山のように届いているという報告は事務局から伝えられていたものの、まさか私にもプレゼントがあるなんて、と感激しながら帰路についた。遠方から観にきてくれただけでも嬉しかったのに贈り物まで用意してもらえて、本当に感無量だった。
 高揚感は家に着いてからも治らなかった。不思議なもので、舞台上からなんとなくではあるが「お客さんが舞台に釘付けになっているな、楽しんでいるな」という感触があった。物語が進んでいくのを楽しみ、歌やダンスに共感してくれているのが客席からの雰囲気でなんとなく伝わってきたのだ。いま思えば、その友好的なオーラのおかげで、緊張せずに気持ちよく舞台の上にいられたように思う。
 初日後の達成感を出演者と関係者一同で称え合い、ついでに「初日があまりに上手くいくと、二日目に失敗する」という不吉な舞台あるあるを聞かされ、兜の緒を締め直す心持ちで寝床に就いた。目を閉じたときの暗闇が舞台袖を想起させ、それがライトの眩しさや暖かい拍手を思い出させるせいでなかなか眠ることができなかった。

 そして二日目にして千穐楽がやってきた。
 昨日の高揚感とは入れ替わるように、あと何時間かしたら全部終わってしまう、という寂しさが起き抜けとともに湧き上がった。
 しかし、この寂しさは12月頃から味わい続けてきたため(ほかの出演者からはロスになるのが早すぎると笑われた。確かにそうだ)朝ごはんを食べ終わる頃には、むしろ吹っ切るような気持ちになった。ばっちり最高の千穐楽にしようじゃないか、と爽やかな気持ちで家を出た。
 舞台は本当に満席だった。開場してすぐに1階席が埋まるのを楽屋のモニターで見届けた。メイクをし、衣装に着替え、出演者と気合を掛け合い、舞台袖に向かった。

 日曜日の舞台の滑り出しは「昨日に比べて、なんだか硬いな」と感じた。イヤな雰囲気とまでは言わないが、なんだか硬い。完成度そのものは大きく違わないと思ったが、発散されるオーラみたいなものが、昨日よりも元気がないように感じられた。そういう雰囲気を感じていたのは私だけではなかったのか、出演者にしか気がつかないような小さなミスがちらほらあった。
 しかし、そこは1年かけてやってきた我々である。勢いは徐々に戻っていった。見せ場の曲が終わるたびに客席から大きな拍手が送られるのも力になった。M10の『ケ・セラ・セラ』を歌い終わった頃には、土曜日と同じような親密さが会場全体から感じられていたと思う。
 この演技も歌も、今日、いま、これで終わり、これで最後。そう袖で噛み締めてから舞台に飛び出した。袖にいるときにはこれまでの思い出がオーバーラップして、少し涙腺が緩みそうになることもあったが、舞台に出ると不思議と落ち着いた。どうも生来の"えふりこき"気質らしい。最後までステージの上を闊歩するのは純粋に楽しかった。

 なんとか泣かずに秋田県民歌を歌いきり、3度のカーテンコールを終え、本当に舞台が終わった。すぐに舞台装置などの後片付けがあるということで、舞台への別れを惜しむのも早々に楽屋へ下がった。
 本来なら打上げの食事なり酒席なりがあるのだろうが、コロナ禍の中、しかも県と市が主催のこの舞台でそういう軽はずみなことはできない。楽屋通路の広間に集まって、演出の畑澤先生をはじめ、脚本の栗城先生や講師陣の方々から総括も含めて熱いメッセージをいただいた。「ありがとう」と「お疲れ様でした」を言われるたび、それはこちらが言う立場なのに、と恐縮した。期待に応えることができた安堵感と達成感、そしてこの挨拶が終わったら、今度こそ本当にこの集団は解散してしまう寂しさが高まっていく。もう舞台ではないので、私も遠慮なく涙をこぼした。ほかの出演者の迷惑にならないよう、嗚咽にならないように気をつけながら。
 こんなに人に褒めてもらえること、良かった楽しかったと言ってもらえること、自分で自分をよくやったと手放しに思えることは人生で何回あるだろうか。貴重で贅沢で特別な時間が終わろうとしていた。
 出演者や事務局の方に挨拶をしながら、稽古も含めると1週間過ごした舞台が解体されていくのを袖やモニターから見守った。あんなに生き生きとして賑やかだった舞台が空っぽになっていくのは不思議な感じがした。私自身も、M5(物語の象徴である、自転車で孝三と明子が秋田の街を駆け抜けるシーン)に使用した街の風景のパネルを捨てるのを、複雑な思いで手伝った。
 だから後日、あのハスの絵の引き取り手が見つかったと聞いたときは嬉しかった。私たちが夢を見た舞台の一部が形となって長く残ることはとても喜ばしく感じられた。

 どんなに生々しい夢でも目が覚めると印象は薄れていくが、私たちが長い準備期間を経て舞台で見た楽しい夢、薄暗い袖からライトに照らされた舞台へ飛び出すときの高揚感や、歌い終わった後の拍手、多くの出演者と歌った曲の響き、そういう記憶は思い出すたびにむしろ強くなっていくように感じている。
 そのようにして、夢のようで、夢じゃなかった舞台はゆっくりと幕を閉じた。

 

 以上、長い長い振り返りになった。
 舞台が幕を閉じてから間もなくひと月となるいま、寂しさも少しだけあるが、それよりもそれぞれに別のステージで活躍する仲間たちをSNSで、時には現地で応援するのに忙しく(毎週末予定がある)「また、気の合うメンバーでなにかできるのではないか」という次への期待の方が日増しに高まっている。
 私自身、ミュージカルの後も風呂上がりのストレッチや体操、ひとりカラオケを楽しむ前の発声練習など、その痕跡は生活の至る所に顔を覗かせている。これまでには出かけなかったであろうイベントや場所に足を運ぶようになったし、新しい繋がりも日々広がっている。こんなに短期間で、こんなにも人間関係が活発になったことがいままであっただろうか。少し躊躇いつつも、この変化を楽しんでいる。
 そして、この変化を一過性のもの、このミュージカルをただの【素敵な思い出】にはしたくない。自分が好きな歌うことでもっと表現ができるのではないか、これまで知らなかった素敵で楽しい活動が、実はあちこちで行われているのではないか。アンテナを張って身体を動かしてみると、なるほど半径100km以内でもずいぶん面白いことがたくさんあるではないか。私は自分も、秋田のことも過小評価していたようだ。楽しみは日々広がり続けている。

 最後になるが、まずこの長文をここまで読んでくださったあなたに感謝を伝えたい。きっと関係者の方だろう。ありがとうございました。あなたの協力があって、私は大きな喜びを手にすることができました。
 それから、今回のミュージカルに携わったすべての方、本当に本当にお世話になりました。きっと私みたいな素人や、それなりにアクの強いメンバーをまとめたり、なだめすかしたり、鼓舞したり、仲立ちしたり、その他想像の及ばないご苦労を引き受けてくださったことに深く感謝いたします。おかげさまで、私はただただ楽しいままで今回の公演を終え、すっかり舞台のファンになりました。ありがとうございました。

 ある出演者の方が「だから演劇はやめられない」と言っていたが、なるほど、やめられなさそうだ。
 それでは、私の「次回」にご期待ください。また、どこかで会いましょう。