でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

劇団ウィルパワー『雨音協奏曲』/うさぎストライプ『あたらしい朝』感想

 ミュージカルでご縁ができた仲間たちを通じて「こんなイベントがあるよー」とか「こういう公演に出るよー」といった情報がいち早くお届けされるため、秋田県内の舞台で展開する面白そうなコンテンツは見落としようがないのだが(ありがとうございます)さすがに身体はひとつしかないので、たとえばこの週末のように予定がブッキングしてしまうと大変である。ブッキングしなかったらしなかったでお財布の中身が寂しいことになるのだけれど。あちらを立てればこちらが立たずで観劇できなかった仲間たちへの手向けとして、せめて感想を書き残すものであります。
 なお、私は感想を書くうえで作品のネタバレというか核心にベタベタ触れるため、そういうのが気になる方にはブラウザバックを推奨したい。そこのところはよろしくどうぞ。

 

【劇団ウィルパワー】雨音協奏曲 会場:旧松倉家住宅米蔵

 3本の短編によるオムニバス公演。旧松倉家住宅の米蔵という少し異質な舞台で展開される演劇はどんなものになるのか、本番を楽しみにしていた。その前の公演では秋田市文化創造館のオープンスペースを会場にしており、今回とは対照的にどこからどこまでがステージで劇空間なのか、境目がはっきりしない舞台を展開させていた。斬新で意欲的な演出が楽しい劇団である。それぞれに感想を述べたい。

 

『箱の中の海』
 文化創造館での演目がキャストを変えて新登場。先に観劇した際に「役者や会場を変えながら長く演じられる脚本にしたい」というような話をどこからか伝え聞いた記憶があるのだが、今回早速リバイバルの機会に立ち会うことができた。
 初回は開放感のあるフロアで大学のカフェテリアというロケーションに近く、物語への強い臨場感が醸成されていた。そのこともあって終盤の海が迫り来るシーンで舞台だけが切り取られたように水中に没するシーンも幻想的で、その美しい情景が引き潮のようにスッと行ってしまい日常が残される表現も見事だった。
 また、キャストが女性のみということもあって教授の愛人疑惑や恋人にうつつを抜かしているのかとかしましくする場面、人魚のブラジャーに対する考察などの笑いどころに妙な質感があったのも楽しかった。今回はどんなふうに変わるのか、展開は知っていたのだがむしろドキドキしていた。

 今回は、海野が浴槽のソレと会話しているシーンからスタート。なるほどですね、どこから山根が登場するんだろうと思っていたが、そういうやり方(キャストオフ)があるんですね、考えたなー。
 キャストが男性になったことでソレとの関係性に自然と「男女」の意識が入り込んだ印象になるのも面白かった。全体的なギャグの面白さの質というか刺さり方が少し変わった。ほかにも、山根が地元で働くことを提案するところも男女であることで別の意味が含まれたように感じられ、現実の残酷さがじわっと濃くなったように思われた。
 やはり海野氏が男性になったことで、研究一筋の気持ち悪い大学院生のキャラクターが際立ったように思う。海野役の工藤さんは、先の公演では「昼休みにやってきて演劇鑑賞に巻き込まれるモブ」というテイで前説をされていたが、あのときの挙動不審ぶりは印象的だった。なので今回は八面六臂に気持ち悪くて大変良かった。個人的にはハンバーガーをちぎりながら食べるのがお気に入りのキモムーブ。
 川元役の笹森さんは海野の反応や所作にヒいたり、ボソッと呆れたようなツッコミを入れたりするなどネガなときが妙にリアルで温度差が面白かった。山根役のあみさんは鬱屈とした感情が分水嶺を越えたり越えなかったりのタイミングで、表情や声の印象がくるくる変わるのがやっぱり上手いなあと感じながら見入った。

 今回は会場が米蔵ということもあって「箱の中」に客席も含んだ演出だったように感じられた。邂逅と別れのシーンに自分の生き方や将来も重ねて見えてくる脚本を、これからもいろいろな演者さんで見てみたいと感じた。

 

『貧血鎮魂歌(ひんけつれくいえむ)』

 最初から「なんか舞台中央に棺桶があるな」と観客全員が思っていたと思うが、その棺桶がオチまで強い存在感を醸していた。
 編集者役のあみさんが弱々しくてぽんこつな演技をしており、大変新鮮だった。怒ったりヒステリーを起こすシーンはよくお見受けするのだが、普通に悲鳴をあげているのは珍しかったのではないか。がんばって事態を好転させようと奮闘する姿がいじらしかった。らん子さん演じる先輩編集者もぽんこつ。頼りになりそうでならない感じがお約束ながら面白かった。そしてこの二人を振り回すのが真珠さん演じる月世さんなのだが、これがまた怪演だった。
 この作品は月世さんのキャラクターに尽きる。正直、所作やセリフはどこか滑稽なのだがしっかりホラーしている。普通に得体が知れなくておっかない。ミステリアスというかおっかない。ホラー度合いがゼロになるところがないというか、常に緊張感がある振る舞いは見事だった。巻尺をシュッと戻すところとか、ちょっと惚気た話をするところとか緊張感が緩むところもあるのだが、やっぱりどこか怪しくておっかない。あの弛緩しすぎない感じの出し方は「掴んでるな〜」と感心した。
 ラストシーンもコメディチックな明るい終わり方かしらと思っていたが、存外しっかりホラーのまま終わってぞわりとした。場面転換を眺めながら、米蔵を棺桶に見立てた作品であるまいな、と不気味な想像をしていた次第である。

 

『雨音協奏曲(あまおとこんちぇると)』

 表題作。狭い舞台にぞろぞろと役者が出てくるのがまず面白い。登場人物の精神状態が天使と悪魔よろしく人格となって現れているのだが、強気と弱気という着眼点なのがいい。強気だけどテンションが低くなったり、弱気なのに「無理無理!」と語気を荒げて暴れたりするのだけど、結局は本人の精神なので甲斐甲斐しくていじらしいのだ。
 妙齢の男性、水野を演じるシゲさんはRHマイナス6の舞台でも活躍を拝見していたが、今回は不器用だけど優しい男性をすごく自然体に演じられていて「さすがだなあ」と感じた。あの、朴訥としていて語りにも動きにも目を引くものはないのだけど目が離せない感じはどう出すのだろう。ホントにすごいなあ、と思って眺めていた。
 らん子さん演じる妙齢の女性、小桃さん。こちらも動き自体は少ないのだけど、レストランでの葛藤で強気と弱気がくるくる賑やかにするのを背負いながら神妙な表情を浮かべたり、雨に濡れた裾を気にしたりする素振りから伝わるガッカリした感じがいたたまれなかった。
 そして終始二人の近くで賑やかにしている強気と弱気。頭の悪いペットのようで見ていて楽しかった。車に乗っているシーンで後部座席に収まっている姿がとても可愛らしくて「この雰囲気いいなあ」と思いながらやり取りを追っていた。強気役の工藤さんと最上さんがたまに暴走しそうになるところの目が据わる感じが面白かったし、弱気役の小林さんと富樫さんが細かいことに執着して困り眉で同じ台詞を繰り返すところの健気さも微笑ましかった。
 二人が手を取り合い、お互いの強気と弱気がゆったりと踊りながら迎えるラストシーンは、正直もうちょっとで泣くところだった。不器用だけど一生懸命生きてきた二人がほかでもない自分自身に祝福されている感じがなんとも言えず感動的で、本当に良かった。今回の3作品は全部好きなのだけど、この溢れ出る多幸感はお芝居を見る根源的な喜びにつながっているように思う。本当にとても良かった。

 

【うさぎストライプ】あたらしい朝 会場:ミルハス小ホールB

 ミルハスに移動してさらに観劇。うさぎストライプさんの『あたらしい朝』。東京で活躍する劇団を秋田で見られるのは本当にありがたい。とても刺激的な公演だった。
「どうせ死ぬのに」をテーマに死と日常を地続きに描く作風、という劇団HPの紹介文にも興味をそそられた。メメントをモリモリするのは私もよくやっているし、それが舞台でどういう表現になるのかもまた気になるところだった。

 そんな意気込みで観劇してきたのだが、なんというか高熱が出ているときに見る夢みたいな舞台だった。掴みどころはないが、感触と印象が具体的なイメージを連れてくる感じとでも言ったらいいだろうか。夢であればそのイメージは覚醒とともに急速に色褪せていくが、舞台で味わうそれは質感を持って居座るらしい。

 思い返しても不思議な舞台だった。きちんとストーリーに沿った展開自体はある。でもその枠組みはタガが緩んでいる。奇妙なものが差し込まれたり、大事なものが漏れ出たりする。それが急に収束してマトモな状態に戻ったりする。そうやって物語が進行していく中で「ひょっとしたらこれはこうなんじゃないか」という漠然とした予感が確信に迫っていく。「事実はそういうことなんだろう」と確信に変わった後も、夢幻の名残みたいなものは形を保って舞台の上に居座って簡単に消えず、まだなにかを喋り続けている。うーん、やはり高熱が出たときに見る夢っぽい。
 登場するキャラクターがみんな苦手な性格の人たちばかりで、しかもイヤな感じの解像度が高いもんだから前半は見ていて疲れてくるところがあったのだが、中盤で「ああ、これはもう居なくなった人たちの残滓だ」と感じてからは平気になった。もう終わってしまったことが、時系列と人間の位置を変えながら巻き起こっているとなれば、嫌うべき性質がもはやそこには存在しないのである。
 そうやって「イヤなもの」がふるいにかけられていく中で、大切だったものや大事にしたかったものが浮かび上がってきて、そうしたものと一緒に旅をしていたことに気が付く。失われてしまったものを「失われてしまったもの」として大事にしていくような、意味のある空白をきちんと見つめているところを舞台の上では表現できるんだなあ、と感じていたように思う。

 と、これはいま舞台を思い出しながら言語化した結果だ。冒頭で述べたように、終わってすぐの感想は高熱が出たときに見る夢だった。そして夢の記憶がすぐに薄れてしまうのと違って舞台の記憶は色濃く残る。だからこそこうして考察して「こうなのかな」という手応えをたぐり寄せることができる。
 漠然としたイメージに役者という人格を与えて、物語という伝えるためのツールをもたらす舞台は、ちょっとキケンな場所なんじゃないかと、今更そんなことを感じた公演だった。ううむ。また見たいなあ。