でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

3月13日の日記

 いつものように読書感想を書いていたのだが、はたと手が止まり「なんだか嘘っぽいことを書いてるな」という引っ掛かりがあったきり筆が進まなくなってしまった。それなりに面白く読んだし、テーマも漠然とながら輪郭は見えていたので書いているうちに形になるかな、と思っていたのだがどうも上手くいかない。書き始めと結末で内容や印象が変わることはしょっちゅうだが、今回の場合は途中から文章としてのまとまりを意識し過ぎて心にもないことを書いてるなという感じがした。表現をオブラートに包むことや皮肉で真逆のことを書くことはあるが、そういうのとも違う。着地点を探してふらふらと浮遊しているうちなら調整も利くのだが、今回は一回着地してから動き回ったせいで完全に迷子になってしまったような感じだ。もっと端的に言うなら、今日は料理に失敗した。できあがったものを皿に乗せて出すわけにはいかない。そんなところだ。

 

 仕方がないので日記でお茶を濁す

 今日は4月からの社会人生活に向けてスーツを新調しに出掛けた。これまでは作業着主体でスーツを着る機会がほとんどなかったことと、自分の体系が長らく変わらなかったこともあって、大学の入学式で購入した吊るしのスーツで15年少々を過ごしてきた。しかし、多少は食生活と運動量に気を使っているとはいえ最早疑うべくもない中年である。腹回りがいささかキツくなってきた。数時間ないし数日であれば旧日本軍よろしくスーツに身体を合わせて急場を凌ぐくらいはどうということもないが、今後はおそらくスーツ着用で一日を過ごすことになる。そうなれば事態はやや剣呑である。

 失業給付も使い果たし(以前住んでいた新潟市の住民税の後乗せと毎月の国民年金の支払い、さらに以前の職場が社会保険料の計算を間違っていたとかで追加徴収されたぶんでほぼ全額が消えた。ウケる)貯金もあまりないが、バーバリーやフェンディの春限定フォーマルを購入するわけではないのでなんとかなるはずだ。最悪カードで買えばよい。最近の陽気ですっかり雪のなくなった道に愛車の軽を走らせて、洋服店の固まる通りへ向かった。そういえば自動車と洋服のお店はなぜ一角に固まるのだろう。

 

 交差点近くの入りやすく、帰りは出やすい店舗に車を停める。大手の企業努力には一定の信頼を置いているのでコナカでもアオヤマでもハルヤマでもなんでもいい。こうした場合は知人が働いていれば多少贔屓にする程度で、大抵は地の利で店を決める。

 店内に入るなりリクルート向けのキャンペーンが目を引いた。スーツ一着のお値段でワイシャツから靴まで一式が揃えられるらしい。魅力的だ。しかし残念、私は内定獲得スーツの10年先を行っている。腹が出てきたのは「恰幅の良さ」でもあるのでスーツの仕立てにも重厚感がないと野暮ったく見えますぜ旦那、というカテゴリーの人間である。残念ながらそういうキャンペーンはやっていないようだ、と思ったらやっていた。部長級スーツでステータスを磨け、みたいなコーナーだった。それはそれでちょっと違う。

 むにゃむにゃとめんどくさいことを考えながら吊るしのスーツ群を眺める。20代のころであればクラシックなデザインのなかにちょっとした遊び心やアクセントを求めたのだが、いま私が望んでいるのは〈完全な無個性〉である。次の仕事にあたり、私が意識しているのはそこだ。ドラマに出てくる公安の刑事みたいなやつがいい。無地の黒。エレガントでない黒。それでいて安っぽいわけでもない黒。そして、そういうのは意外と見つからない。

 まごまごしていたら店員さんに声を掛けられた。独力では良いものが見つからないので頃合いかとも思っていたので、逆らわずに店にきた経緯と希望、予算を告げる。同年齢と思しき女性の店員はすぐに2、3着を持ってやってきた。なるほど希望した通りの色合いである。早速試着する。

 狭い試着室で着替える。こうなるとわかっていたのにタートルネックのシャツを着てきた自分に辟易する。まあ今更仕方ない。上裸でスーツを羽織るわけにはいかない。ぴかぴかに磨かれた鏡で自分の顔を眺めると、白髪が増えていることに気がついた。特に側頭部はかなり白い毛が目立っている。この1年は苦労らしい苦労をしていないのだが不思議なものだ。

 いくつか試着させてもらって購入する一着を決めた。私は長身なのだが(健康診断に出掛けたら182cmあった。この期に及んで少し背が伸びた)上半身にあまり厚みがないのでスーツがそこまで似合わない。かっちりした格好は好きなので、そのうちオーダーメイドのスーツが作れたらいいな、と新しい希望を持った。

 

 帰りにケンタッキーに寄ってフライドチキンを買って帰った。今日は親父の誕生日である。むかしからケンタッキーのチキンが好物だったので、今年はこれが誕生日プレゼントだ。私も子供の頃から好物で、大学時代や社会人のときには気が向くとフライドチキンのボックスと缶ビールを1パック買ってきて、テレビや映画を見ながら一人でそれを楽しんだ。私の健康的なアメリカのイメージそのものである。栄養価的には全然健康ではないが、そのようにして過ごす休日の昼下がりには完璧な平和の均整が存在していたような気がする。

 そのときにテレビで流していたのは『藤岡弘、探検隊』だった。隊員たちの肩や靴になんの脈絡もなく乗っかっているタランチュラやサソリに大爆笑しながらチキンを齧り、ビールを飲んだ。私の〈自由〉のイメージは、究極的にはそこになるのかもしれない。そして少なくともいまは、それを不幸だとは思わない。

 スーツ姿の社会人と、束縛があるからこそ存在していた自由な午後。その両方に思いを馳せる一日だった。無職の日々も楽しくて気楽だったが、そういうのも悪くなかったよな、という思いがある。それはバカバカしいけれど、未来への希望の具体的なイメージである。