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読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『ここは、おしまいの地』こだま

 衝撃のデビュー作から1年、待望の新作。Quick Japanで連載中のエッセイを加筆修正しての発刊となった今作は、著者の(主に苦い)経験を“いま”に軸足を置いて語られる。前作がすでにそうだったのだが、今作も重い・辛い・苦しいの三重苦。いや、クサいもあるので四重苦か、ひとつひとつのエピソードが胸に刺さる鋭さと相応の毒を持っていることは間違いない。

 ところが語り口は驚くほどスムースで冷静。ユーモアたっぷりに紡がれていく幼少期から壮年期までの記憶、あるいは闘病の様子はくすりと笑える優しさをたたえながらも、その実決して生易しくはない。むしろ事象だけを切り取って眺めてみれば、それは痛切な悲鳴であってもおかしくはないはずなのだ。そこを著者は敢えて軽快に歩いていく。主観すぎるのでもなく客観的すぎるわけでもない絶妙な距離感で、不幸としか形容できない道を粛々と受け入れて闊歩する。その姿や足跡を眺めているうちに、北国のどこかに存在する「おしまいの地」がセピア色のお伽話となって脳内に展開されていく。著者の自身を含めた人間観察と、それを文章にして再構築して伝える能力の高さにはエッセイに触れた誰しもが驚嘆するはずだ。

 今作のエピソードでも著者は客観的に見ればずいぶん酷い目に会っているが、意外にも心底邪悪な人間は出てこない。いずれもどこか弱さゆえに歪んでしまったものであったり、止めるものがなかったゆえに増長した意地悪のような、我々が普段の生活で目にするものと根底に変わりはない。しかし、そのように見えるのは著者がそういうふうに、努めて淡白に書いているからで、同じような経験をした人が本作のような考え方や描き方をするとは想像しにくい。とかく過剰な表現で書き立てる昨今において、自分も相手も突き放したような目線で描写できる精神性こそ稀有な才能だろう。余計な脚色をせず、それでいて厭世的な雰囲気を纏ったユーモアが散りばめられている構成だからこそ、するすると胸の内に降りていくのだ。

 

 以前、星野道夫氏の『旅をする木』を読んだ際、本に写真やイラストは一切ないにも関わらず、アラスカの広大な自然やそこに暮らす人々の息遣い、動物の生臭さまでが感じられて、文章を通じた追体験の不思議に圧倒された。こだまさんの文章からも同じチカラを感じることができる。自分の体験でありながら半歩引いたような独特の目線で描かれる物語には読者が立ち入るアソビのような物があって、自分の精神がうまく文章と融合しているような心地がする。まったく知らない風景に自分がすっかり溶け込んでしまう文章はそうそう書けるものではない。寂れた町、妙な個性を隠さない家族、金髪のヤンキー、変貌した川本、そんな場所や人があっさりと脳で像を結び形となる。絶対的に他人事なのに、どこか親近感が湧くという矛盾していながら自然と持ち上がる感情は、等身大に生きるエッセイストにしか提供できない感動だろう。

 両者に共通するのは様々な環境に対する一種の諦観に違いない。そしてその諦観ゆえに環境を愛し、いまあるものに対してこれ以上ない優しさで生きている。過酷な環境の中で、自分自身の〈生〉への取材を丹念に繰り返すような生き様。その本質を見抜く瑞々しい観察力があるからこそ、飾り立てずとも美しい文章で読者に語りかけ、ときには共有することすら可能にするのだ。

 世間の読者に提示された〈これまで〉に加えて、作家となってからの〈これから〉が今度どのように作品として形になっていくのかにも注目したい。

 

 デビュー作である『夫のちんぽが入らない』は文フリ以来のファンが半ば想像していた通りに話題作となり、SNSや雑誌を通して評判や感想を目にする機会も多かった。しかしタイトルに過敏な反応をする層や、若干歩み寄った人からも「タイトルのわりに」という枕詞で始まる感想を多く見かけたのも事実だ。そういった意味では色眼鏡なしの本作がどのような評価を受けるのか、長年のファンとして経緯を見守っていきたい。

 最後に重箱の隅をつつく。今作は製本があまり良くない。表紙が固く、中身との段差が大きいため、片手でページを捲るのに適しておらずソフトカバーの良さが死んでいる。装丁のデザインが綺麗なだけに残念だった。