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読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『銀河鉄道の父』門井慶喜

 詩人、宮沢賢治の生涯を、その実父である政次郎の視点から描いていく作品。途中からは賢治の目線も加わるが、主役は本題の通り〈父〉にある。

 読み終えてまず思ったのは、どこまでが事実でどこからが物語なのか、ということだった。途中で何度か「これ伝記じゃないよな。あくまでフィクションだよな」と首を捻った。それほどに親子のやりとりは生々しくリアルである。作中には賢治の作品や、彼が政次郎へ送った手紙の引用が多く見られるが、巻末に参考文献や引用元の記述は見当たらない。一方で「この物語はフィクションです」というような断りもない。これは不義理というよりはむしろ、意図的に曖昧にすることで現実と虚構の境界線をぼかし、読者を物語の世界へと導入する狙いがあるのだろう。そしてその目論見は少なくとも私には効果絶大だった。

 

 宮沢賢治の生誕は1896年、日清戦争終結の翌年であるから、父と子、家族の成り立ちも現在とはずいぶんと違う。端的に言えば父権が強い封建的家父長制が根付いており、しかも宮沢家は地元で財を成した裕福な商人の家で、長男として生まれた賢治は家業を継ぐことが期待されていた。挨拶の言葉や食事のシーンなどからはそうした厳格な気配が色濃く伺える。一方で西洋文化流入による生活の変化と、それに対する戸惑いも親子の生活や関係を通じて垣間見える部分があり、ひとつの歴史物としても充分に面白い。

 時代が時代なので政次郎は父親として常に厳格であり、家長としての威厳を保とうと努める。しかし表面上は仏頂面を作りながら、息子のやることなすことにその都度逡巡し、狼狽する。悪い友達と遊んでいれば影響を心配し、一方で趣味に没頭して目を輝かせているのを見れば手伝ってやりたくなる。賢治が病気になったときには付きっきりで看病をし、いつもの頑固な佇まいを忘れて息子の世話にやり甲斐や使命感を覚えるくだりなどは、病室の窓越しにその場面を眺めているような心地にさせられた。そこかしこに現れる家族愛やちょっとした打算、自己愛などは現代に暮らすお父さんとなんら変わりはない。父として迷い、悩み、息子の在り方を通して自らの存在についても洞察を繰り返す姿に、百年の時を超えて親近感を抱かずにはいられなかった。

 そしてそんな父の苦悩をリアルに描けるのは、息子の賢治がいかにも現代風に、情けない姿を隠さずに登場するからだ。神童扱いされる幼少期を経て中学へ進むも学問の道で挫折を味わう。手紙でしょっちゅう金の無心をする。家業を継いで仕事をしてみるもうまくいかない。改めて進学し知識を身につけると、今度は現実味のない大それた商業計画を立てる。突然家出する。などなど、父の目から見ても、当人の賢治自身の内省を持ってしても、そこに偉大な詩人の姿はほとんどない。八方塞がりの現状に苦しむ若者の等身大の苦しみや葛藤が剥き出しになっている。有名な妹トシの最期や、作家として初めて新聞に掲載されたときの喜び方なども、ひとつの家族として等身大の慎ましい描かれ方に留まり、それがかえって現実味を帯びたものとして感じられた。

 このように現代と精神的にリンクする部分を多く持つ中でただひとつ、明らかな差異として際立つエピソードがある。政次郎はトシのときも賢治のときも、子供の最期を覚悟したときに「お前の遺言を書き取る。言い置くことがあるなら言いなさい」と自ら申し出るのだ。親として子が先に逝くというもっとも辛いであろう、認めたくないであろう出来事に家長として毅然とした態度で臨む姿は、おそらく現代には存在しない。変わらない父性と失われた父性のコントラストに、眩暈がするような不思議な感覚があった。その場面だけは、切り取られたようにくっきりと印象に残っている。

 

 以上。基本的には優しくのんびりとした小説でありながら、ときどき鋭い刃を向けてくるようなメリハリの効いた作品だった。今更だが銀河鉄道はほとんど出てこなかったのでこのタイトルはオシャレだけどどうなんだという気はしなくもない。

 直木賞受賞作として、また、偉人・宮沢賢治を題材とした作品として格調高い印象を受けるが、親子のやりとりや揺れ動く心情の描写は心地よく親しみやすい。ひとつの家族のドラマとして作品を楽しむことができるだろう。

 余談だが前々回の直木賞を受賞した恩田陸蜜蜂と遠雷』には物語のエッセンスとして宮沢賢治の詩が登場する。予備知識が必要なわけではないが、賢治の作品に触れておくことで両方の作品は一層楽しくなるので是非。