でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

「ペンネの日記」感想 part.2

引き続き「ペンネの日記」感想。


漢字読めないさんの2作。自己紹介と人生観のハイブリッド「Who are you」と、そこから始まる唖然とするほどまっとうな青春群像「僕と岡澤くんの120メートル」。

個人的に「ペンネの日記」全体を通して一番新鮮な驚きがあったのが「僕と岡澤くんの120メートル」だった。
前段「Who are you」の内容とテンションから「この人はどんな人生のエピソードを抱えて笑かしにくるんだろ」とそちらへの期待ばかりに意識が傾いていた。警戒を解いて防御力がスカスカになっていた素面の感情回路に、少年時代ならではの個性への内向と、それに矛盾しない友情との邂逅という要素はクリティカルヒットした。じん、としてしまった。
漢字読めないさんのことはこだまさんのブログを通しておぼろげに知ってはいた。そして現在の境遇から勝手に静かで穏やかな生き方をしてきた人だと、自分の中で決めつけてしまっていた。反省しなくてはならない。当のこだまさんだって学生時代は陸上部なのだ。だったはずだ。たしか。

少年野球に打ち込んでいた頃の身体を躍動させる描写、リレーのアンカーを走るときの情景描写、岡澤くんとの短い会話に存在する距離感と友情。それらがテンポよく展開していき、わずか120メートルの勝負は決着する。
たった5ページの物語だが、そこからは中学生の生き方をそっくりと観て感じることができる。題材にされた短距離走と同じように、無駄がなく白黒のはっきりとした文章は終始魅力的だった。
すごく王道なのに、すごく騙された感じがするのは読者の心が汚れているからなのだろう。漢字読めないさんには是非もっといろいろなことについて書いて欲しいと思った。



たかさんの「ダイヤモンドダスト」。
たまに本屋で文庫本を物色していると帯に「最後の一文が語る衝撃!」みたいな紹介をされているヤツがあるが、この「ダイヤモンドダスト」は出だしの一文が最低に、衝撃的に始まった。漢字読めないさんが残していった青春の香りが一瞬で殺されてしまった。ひどい。

昨年の「なし水」も強烈だった。鈍くも力強く光輝く下品な面白さをズバンズバンと放り投げ、その豪速球に慣れてきた頃に家族愛をちらりと見せつける小技に私の感性はクルックルだった。いいように笑わされ、いいように涙ぐんだ。今年の題材は、昨年ほぼ出番のなかった姉だ。ブログで一通りの経緯を知っているとはいえ、期待は高まった。

クスクスと笑いながら、ときどき大笑いして最後まで読んで、ちょっとしんみりして終わったかと思ったら最後の最後でえらいことになった。これは来年もやるということでよろしいのか。反則技だろ、と思いながらまた笑ってしまった。

それにしてもたかさんの描写の、ナマナマしいというか生き生きとしているというか、剥き出しになった人間と動物の中間みたいなあれこれがそぞろ歩いてくる感触は本当にすごい。観察力と表現力、とくに俗っぽい比喩をして読者の心に落としてくる技術は「うまいなあ」と感動してしまう。
作中で描かれる射精の様子がまざまざと脳味噌で映像として補完されてしまったとき、自分の想像力がたかさんに喰われたと感じた。

たかさんは(たかさん以外の著者もそうだが)いろんな人や物事に怒ったり失望したりしても、それを見限ったり投げ捨てたりはせずにきちんと抱えている。面白い人だな、と思うと同時になんと優しい人なんだろうと思わずにはいられない。もちろん一番強い気持ちは「変態や!」だけど、それは今更どうでもいい。
次はどんな作品が、どんな色と匂いを伴ってやってくるのか楽しみだ。



最後に酉ガラさんの3作。

酉ガラさんの文章に対しては「感想を書く」という行為がとても見当違いなやり方に思えるのだが(考えれば考えるほど著者と読者という関連性自体に疑問を感じる)、それでも書く。故に時間が掛かり、長くもなった。絶対徒労だ。

正直このノリが生来好きではなかったし、もっと正直に言うと嫌いだった。これを評価してるヤツもみんなおかしいと思っていた。
あくまで枠とルールの範疇でやりとりされる何かや、そのやりとりを通じて生まれる何かが私の面白さや興味の感知できる世界である。ここまで自由で直接的だと自分の受容器は素通りしてしまう。俗に言うとヒいてしまう。自分が狭量なのだろうとも思うが、そっちも好き勝手やりすぎだろ、と自己弁護する気持ちもなくはない。
ブラウジングだったら絶対最後まで読まないと思うのだが、せっかく本という形で自分に突きつけられた世界でもあるので半分は作品へ、半分は自分に向けたつもりで読んだ。

結論。メモ帳とコーヒーを片手に覗く世界ではなかった。私が間違ってた。

小説を読むときは想像力が文章に寄り添って進んでいく。たとえるなら散歩であったりランニングであったりドライブであったりするわけだが、酉ガラさんのはもっと短いスパンでめまぐるしく動くジェットコースターのような物だ。ついでに隣の客がたまにパンチを放ってきて、終点も決まっていない。
進み方が裏切る、見える風景が裏切る、三半規管が裏切る、隣の乗客が裏切る、脳味噌が文章から得た情報を結んだ映像自体に裏切られていく。単語や文章が持つエネルギーとでも言うか、短いセンテンスが直接感覚に作用する面白さ(それは基本的に下品なあれこれということになる)が礫のごとく絶えずやってくる。
この感覚は身を任せて初めて面白いのだと知った。寄り添うというより、参加するタイプの文章だったのだ。リラックスして素直に読み進めながら「ンフッ」という笑い方を何度もしたのに自分でも驚いた。

実は(実はという言い方もおかしいが)「シンデレラ」と「クラムチャオダー博士」はちゃんと読むと起承転結がはっきりとある上に構成も練られている。サビの部分というか、盛り上がりと引きがある。
そもそもが意味や結果に面白さや楽しさを求めた世界ではなかったのだ。ここにあるのはキャッチボールではなく、次に何が飛んでくるかわからない面白さだ。ボールが来ると思っているところへ変な物が飛んでくるんだから、それは当然面白い。

と、こんな風に分析するようなことをつらづら書いている時点で「やっぱりわかってないじゃないか」という気分にもなってきた。そういうことじゃねえな、と思わないこともない。
それでも構わない。実際「暴走族に追いかけられる関根勤」は本当に意味がわからなかった。これを写植した印刷所の社員のことを考えている方が面白いと思うくらいだ。

「意味がわからない」という面白さには意味が生まれるだろう、と雑に纏めてしまうが、それなら「意味のある面白さ」の方が私の肌に合うというのも素直な感想である。



以上、好き勝手、いろいろ思ったことを書いた。的外れなこともあるだろうし、失礼なこともあると思う。ご容赦いただきたい。

読み終えるたびに思うのは「自分も何か書けたらいいなあ」という希望であるが、そのエネルギーの大半はこの読書感想を書くことで昇華されてしまっている。私は内包しているものが弱い上に、周りの影響を強く受けてしまう。熱しやすく冷めやすいので、文章を書くのに一番向かないタチなのだ。
その辺りを鍛錬と研究で乗り越えていけたらいいなあ、というのが新しく生まれた希望である。その希望を絶やさないように日々文章に触れていようと思った読後であった。

著者のみなさん、ありがとうございました。
次回作にも期待しています。