でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

6月27日 更新開始から一ヶ月の節目

先月26日のブログ更新から日記形式で毎日文章を書いてきた。この文章自体はこのブログサービスの投稿画面からではなく、Evernoteに書いた物をPCならそのまま直接コピペ、社宅などPCが手元にない状況ではiPhoneからEvernoteに残しておいて後からPCで、という方針で更新している。更新時間が23時59分の記事は後から更新した日記であるので厳密には毎日更新ではないが、それでも一ヶ月かなり意識して文章を書こうとは思ってきた。

目標だった「まずは一ヶ月」を無事に達成できてホッとしているが、同時に「やっぱり俺の文章はへたくそだなあ」とがっかりもしている。浅い、薄い、面白くない。この辺りの事実を確認することも目的のひとつではあったのでそんなにへこむ必要もないとは思うのだが、それでも理想と現実のギャップがバックリしているのを見るとうっとはなる。

私が本を読むようになったのは中学生のときで最初はラノベから入った。光の白刃から入った。読書感想文など課題のために本を読むことはあったが、読書をエンターテイメントとして捉えたことはそれまでなかった。文章から得られる情報で自らの想像力が刺激され、物語が映像以上に自由な広がりを持って脳内に展開される面白さは、控えめに言っても私の人生観を変えた。もともと言葉の持つ面白さには興味があったのだが、読書を通して読むことや書くことへの親しみが生まれたのはこのときだったように思う。

高校時代に友人から村上春樹を勧められた。ご存知の通り私のニックネームは「いわし」であり、「いわし」がでてくるから読んでみれと手渡されたのが村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』だった。いわしは猫だった。しかも出てくるなり死んでいた。ローストビーフのようにかちこちになって死んでいた。それを読んでいたのは地理の授業中だった。私は下唇を出血するほどに噛んで太腿に爪を立て、文庫本をカバーする形で置かれた地理の教科書に見えるアフリカ大陸の悲痛な紛争に思いを馳せながら笑いを堪えた。やりてえ。このやり方で面白さを追求してえ、という文章に対する万能感や憧れが確かなものに変わった。

少し前にケータイ小説と呼ばれるジャンルが話題になったが、私と友人たちはそれが流行る数年前にその流れを先取りしていた。全角で500文字程度しか打てなかった当時のPHSのメール機能でせっせと物語を紡いでは友人たちに送りあっていた。高校3年生のときである。受験生真っ只中である。私の成績は伸びを欠いた。夏休みにはFFXが出た。志望校のランクがふたつ落ちた。

大学生になると自由にPCが使えるようになった。自分のPCは就活を始める頃まで持てなかったが大学ではほぼ無制限にPCを使うことができた。情報処理入門とかいう授業があったお陰で単位を取りながらPCで遊ぶスキルを身につけることにも成功した。学校の意図とは裏腹に遊びの技術が向上した。ファミ通町内会サラブレの「ますざぶ」に投稿が載ることで面白さのセンスへの自信を深めた。2回留年した。

半生を振り返ってしまった。なんでだ。酒を飲んでいるからだ。まだ続く。

大学時代にブログや大喜利を通して「こいつらとんでもねえ」と思わせる、ゾッとするアマチュアを何人か見掛けた。表現力がプロのそれよりも新鮮で親近感があり、物語の見せ方や切り出し方も鋭かった。幸いそのうちの何人かとは少し仲良くなれて何通かメッセージを交わすような間柄になることもできた。

そこで満足してしまったのかもしれない。いつの間にか自分の中で書くこと、読むことに対する興味が無難なものになってしまっていた。書かなくなり、読まなくなった。そのことに特に何も思わなかった。

それから10年。とんでもねえ人たちはさらにとんでもなさに磨きをかけてとんでもないことになり、私はなにがしたいかもわからなくなって、実際なにもできなくなった。

今更その現状をひっくり返そうとは思ってないし、自分がとんでもない人になれるとも思っていない。それでも自分が憧れる「とんでもない人」の理想像と、そこに至る道は確認しておきたいと思った。

ちょっと前に本屋大賞を獲った『羊と鋼の森』で痺れる場面があった。作中でピアニストを目指すと決心した女の子のセリフ。

「ピアノで食べていこうなんて思ってない」

「ピアノを食べて生きていくんだよ」

ビビッときた。

自分がそんなふうに覚悟を決めて文章と付き合っていけるとは思っていない。むしろ本を読むのも文章を書くのも世の中にはとんでもない人たちがすでに大勢いて、そういう道を特になんの取り柄もない自分がこそこそと歩いていくことに対してすら胸がぎゅっとなるような心細さを感じるくらいだ。とてもそういう生き方はできない。素質も技術も根性もない。

それでも私はその生き方と方向性に憧れたい。それが自分の理想像だと確信したい。

だから不格好でも分不相応でも、すごい人たちの真似をしていこうと決めた。だからできる限り読むし、へたくそでも書く。

とりあえずいまはそれでいいと思っているし、これで精一杯である。

こういうことを書くことで満足してしまうのも自分の悪い癖なので、自分に刺激を与え続けながら文字の海を泳いでいきたいと思う。あるいはそこできちんと溺れることが必要なのかもしれない。

できるだけ遠くまで、できるだけ深くまで、できるだけ美しく。やっとまた人生が少し有意義になってきた。