でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

動物愛護の話

就職活動をしていた頃に、ある地方銀行の採用試験で面接に出かけた。3人でのグループ面接だったのだが、そこでのやりとりを唐突に思い出したので少し書く。


その面接はいわゆる圧迫面接めいた色を持っていて、面白くない話題に面白くない聞き方をして反応を見るというパターンだった。地銀はどこも大変だ、という話はそこかしこで見聞きするので受験者のストレス耐性みたいなものを推し量る意味合いがあったのかもしれない。
私は学業をかなりおろそかにしているタイプだったのでそこをだいぶ突っ込まれた。それでしょんぼりしたりイライラして受け答えに窮するほど無策ではなかったが、一緒に面接を受けていた女性は特技として語った外国語が「うちの仕事で役に立つの?」みたいな反応をされて目に見えてショックを受けていた。いまでも思い出すと可哀想になる。

私は一番右側に座り、外国語が堪能な女性が真ん中、もうひとりの受験生の男性が左側だった。
私がのらりくらりと学業不信の反省を述べ、女性はスペイン語だかフランス語だかの今後の発展性が仕事に役立つはずとの見通しを弱々しい口調で話し、最後にそいつの番になった。
彼は経済学部で金融を学んだこと、自分の地元で経済の基盤を担う銀行業に興味があることなどオーソドックスなあれやこれやを述べたあとで、動物愛護のサークルで活動していたことを話した。それを聞いたとき「あ、そこ絶対つっこまれる」と私は予感した。ちょうど捕鯨やら何やらでそこらの話題がセンシティブになっていた頃だった。地雷踏みに行きおったこいつ、と思っていたら案の定そうなった。

「動物愛護のサークルをやってたの?」
「なんで動物?」
「難民支援とかホームレスの支援とか、もっと優先順位があるんじゃない?」

といった感じの質問が面接官から飛ぶ。うわあ応え辛え、と我ながら同情したが、そいつの受け答えははきはきしていた。

「動物愛護は自分の属する地域の、犬や猫などの捨てられた愛玩動物とそこから自然繁殖で増えた動物を中心としている」
「動物が好きだったので、動物を助けたいと単純に思った。本来人間に飼われる動物が野生状態に捨て置かれるという状況は動物にとって非常に酷であるし、ゴミやふんなど地域社会にも悪影響を与える。またそれは同じ地域の人間が飼育責任を放棄するというコミュニティとしての問題であり、やはり同じ地域に住む自分たちでその責任は取りたい」
「様々な苦難に見舞われている人たちへの支援が優先されることには同感である。しかし先に述べた通り、私の動物愛護の活動は『地域のコミュニティ』を健全に保つために、自分ができ、また自分でやりたい手段として選んだものであるのでその優先順位からは外れる。同時に動物たちも社会生活で人間に恩恵を与えているのだから、ある程度は同じような支援を受けるべきだと考える」

というようなことを、淀みなく答えていた。
こいつは受かるだろうし、俺はここで落ちるな、と思いながら彼の話を聞いていた。
後日、無事に今後のご健勝をお祈りされた。彼が受かったかどうかはわからない。



私は大学時代に馬術部に所属していたのだが、馬術をやろうという人間はある程度動物が好きな連中の集まりなので、当然そこには猫や犬がついて回る。厩舎にはいつも猫がいた。
ただ飼い猫であるという認識はあまりなく、餌はやるしわかりやすく病気になっていれば医者に見せにいったりもするが、予防摂取や避妊手術の類はしなかったし(いまはしているようだ。普通に飼い猫になっている)子猫が馬房で馬に潰されて死んでいるのを「あーあーばかだね」と言いながら適当に埋めにいくようなドライさも持ち合わせていた。彼でいう責任の放棄というのに当たるのだろう。それが私の普通だった。なので彼が面接で答えている内容は、なかなか考えさせられるものがあった。

動物たちにとっての死はいつも突然であり当たり前であり必然でもある。捕食、という終わり方がある生活環のなかに「老衰」は存在しない。だからというのもおかしいが、世の動物たちは死に対してもそれなりに達観していると思っているのだ。少なくとも将来の安心や安全のために我慢をしたり貯蓄をしたりすることを最上の喜びとすることはないはずだ。
一方で動物たちは一瞬一瞬の喜怒哀楽を私たちよりも何倍も大切にいるだろうということも推察できる。いま食べているものが美味しいとか、いま安心して眠れる布団は最高だとか、いまボールを追いかけているのが楽しいとか、それ自体が生きる理由であり生きる喜びに直結しているだろう。

面接の彼はその環境を慎ましく維持することが愛玩動物たちと人間との関わりの理想形であると語っていたように思う。ただそれを維持するのは飼い主たる人間の責任感に一存されるしその関係性はその意思の在り方次第で簡単に終わってしまう。
彼はその無慈悲な一方通行を、できる範囲で改善しようとしているようだった。社会という輪のなかに動物も組み込んで考えるところまで当時の私の想像力は到達していなかったのでずいぶん印象に残っている。
いまでも「なに言ってんだこいつら」と思ってしまう動物愛護派の意見は目にするが、少なくとも彼の意見を聞いたお陰でその重要性と意義は自分のなかに質感を持って存在している。