でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

3月11日に考えていたこと

 数年前から「3.11を忘れない」というメッセージが「3月11日“だけ”思い出す」という免罪符的な傾向を強めているような気がして、その日が近付くにつれ様々なメディアを見るのが億劫になっている。

 記憶を繋いでいこう、忘れないようにしようという過去形が中心となっているのが気に入らない。震災復興はまだまだ道半ばであるし、福島に関しては原子力規制委のトップが少し前に言った通り「原発事故はいまだに継続中」である。思い出すまでもなく、まだ多くの人が震災の渦中にいる。運よく被災しなかった人間が外部からその区切りを設けるのはいかがなものか、という気持ちはあるが、私自身が多少の不便は味わったものの被災したわけではないから大それたことを言える立場にはない。それもまたモヤモヤの一部かもしれない。

  地震発生時、私は新潟市の会社にいた。午前中の業務を終えると長めの休憩があり、ちょうどその時間帯だったのでのんびりと書類の整理などをしていたと思う。揺れを感じてすぐには、それほど大きな地震だとは思わなかったが、船にでも乗っているかのような横の振れ幅と終わる気配のない長時間の揺れから異常事態を察知するのにさほど時間は要らなかった。

 Yahoo!のトップページでF5を連打するうち、東北全体と関東地域が皮膚病にでもなったかのように震度5と6の色に塗りつけられた。一番色の濃い場所、宮城県の太平洋側には震度7という情報が表示された。あとは混乱に拍車が掛かっていくばかりで、おそらくは大多数の国民と同じ思いで数ヶ月を過ごした。

 

 大学生の頃から、私は日本という国に対して諦念めいたイメージを持っていた。かつて経済大国として鳴らした島国は働き盛りの時期を終え、少しずつその能力とタフさを失いつつある。自慢のノウハウもやや時代遅れになり、新しい技術も我先にというよりは誰かの後ろを安全にという姿勢が多くなった。酒の席ではむかしの武勇伝が増え、他人の悪口で憂さを晴らすような態度も目に付くようになってきた。気前よく奢ってくれるので酒席にはまだそれなりに人は集まるが、だんだん店のグレードも落ちてきているし、そっぽを向く若手も増えてきた……。そういう、引退間近の技術者のような印象だ。

 そのままゆるゆると衰えて年を重ねていくだけなら、時間という冗長性のなかで居場所を見つけることもできたのだろう。東日本大震災は、その老齢技術者が一発アウトで長期入院するような大病を、突然患ったように感じられた。

 

 もちろんこれらは抽象的なイメージでしかなく、それがこの国の真相だとも行く末だとも思ってはいない。比喩やイメージは全体像の把握を助けるものでしかなく、その矮小化した印象でもって解決策を見出すのは愚かだ(例えば国債を家庭の借金と見なし、その解決として細かな消費の倹約を掲げるようなこと)。

 しかし現実として、この先数十年かけて少しずつ解決するなり、延命用のブリッジを架設して先延ばしにすればよかったような諸問題が一瞬で、喫緊の課題として突きつけられるようになってしまった。

 速やかに手が打たれたこともあれば、この後に及んでもなお抜本的な対策に乗り出せず、放置されている問題もある。震災後の数年間は、その放置されているサマがずいぶん露骨だったのでイヤでも意識させられていたように思うが(実際、被災地の瓦礫の処分方法などで直接的な議論も多く見られた)最近ではそれにすら慣れてしまったのか、あるいは心理的なフィルターが掛けられたのか〈喫緊の課題〉の姿は見えにくくなってしまった。

 その姿勢の変化を私は、政府が悪い、とばかりは思わない。おそらくは被災者も含めて、私たちはそうした問題に対して真正面から対峙するには疲れてきてしまっているのだ。だから一年に一度、地震の起きた日を強く想起することで「なにかをやった」という手応えのようなものを味わって、陰惨でくたびれ、それでいて不毛な震災後という現実と一定の距離を置こうとしているのではないか。そんな気がしている。

 

 阪神大震災から神戸が復興したのは、神戸という街に力があったからだと思っている。先ほどの日本へのイメージで語れば、神戸はまだバリバリ働ける年齢で震災という大病に罹患した。もちろん大きな痛手を被ったし、復帰するには厳しいリハビリも経験することになった。しかしそれを支える周囲の協力があったし、彼が復帰するためのポストや仕事も用意されていた。

 7年前に被災した東北の小さな街々は違う。多くの地方都市や、それよりさらに小さい市町村の大半はこれまでの貯蓄を切り崩しながら、ゆっくりと衰えていく身体で生活している高齢者のようなものだった。そこへ阪神大震災以上の深刻なダメージが襲った。平常時ですらなんらかの協力や力添えがなければ維持するのがやっとだった街を、どうやって「元気で明るい街」として復興させることができるのだろう? 仮にそれが実現可能だとしても、そのために投入される資本が莫大になることは明らかであるし、その結果〈復興〉を遂げた地方都市が再び十数年で活力を失ったとしたら、それは意味のあることなのだろうか。

 私が東北復興を耳にするたびに感じている違和感の本質はここにある。ただ街を元の姿に(ある程度まで)戻す、故郷の再生という意味合いでの復興では不十分だ。抜本的に立て直すというのであれば、経済基盤やインフラにも梃入れをして地域としての活力を備えなくてはならない。同時にそれは、震災や津波の被害を契機にした土地区画整備事業に過ぎないという側面も否定できない。そこに一種の棄民政策的な側面を見出すのは容易い。ようは、合理的でないから諦めろ、と言っているのだから。

 震災前の姿に、という心理的な復興と、地域が今後もあり続けるための経済的な復興の理想像が、様々なところで同じ〈復興〉という言葉で語られることにイメージのピントが合わないこと。そこに私が震災と対峙したときの根源的な居心地の悪さがあるような気がする。私自信、どちらが正しいのかいまだに判断がつかない。

 

 福島の原発事故による爪痕が大きく残る地域では、復興を定義することはさらに難しいはずだ。新しい復興の形として掲げられた福島イノベーション・コースト構想はようやく具体的な設計図(福島ロボットテストフィールド)を描く段階まで来た。願わくばこれが一地域の産業に限らず、東北沿岸の被災地域全体を巻き込む経済プロジェクトとして機能して欲しいものだが、どうも資料を見る限りそこまでの規模ではないらしい。

 震災に伴う原発事故に際しては、そもそもの物事の順番として、まずは、多数の国民の生活が取り返しのつかないことになってしまった責任と謝罪をどうするのか。そして今後、同じような過ちを繰り返さないためにはどのような方針で国策を進めればよいのか、を確認する必要があった。被災地の復興は、それらが定まった後になって初めて明るい展望図が描けるようになるのではないだろうか。

 しかし原発事故から7年経ってなお、その第一段階すら議論が紛糾していて見通しが立つ気配がない。それらがうやむやになったまま、あの日を忘れない、という空虚な約束で進んでいく先には同じような悲劇が待っているような気がする。それも、そう遠くない未来に。

 

 天災は防ぎようがない。政府や東電に瑕疵があったにせよ、この甚大な被害の大元は未曾有の自然災害にあり、単に人間はそこにおいてあまりに無力であったのだと私は認識している。

 むしろあれだけの被害がありながら大規模なブラックアウトを防いだ電力会社の尽力や、被災地の救援に全力で動いた自衛隊の活躍などは、現場の人間の強さや日本人の職業能力の高さを再確認し見直す機会にもなった。ダメな場面やイヤな話も数多く見聞きしたが、そこには高い能力を持った人や柔軟に動く組織の姿も同じくらい確かに存在したのである。

 巨大な社会基盤だからこそ、大規模な天災から連鎖的に生じる悲劇は想定しにくく、また甚大なものになるのだろうと想像する。その生活様式を今更捨て去ることはできない。平和に、より豊かに暮らしていくために、そうした被害を最小限にするべくシステムや技術、人員がさらに効率的に採用されるような社会になってもらいたいと願っている。

 

 以上。偉そうな前口上から書き始めたが、書いているうちに私もさほど被災地に心を砕いているわけでもなく、方向性の定まったビジョンがあるわけでもないことが浮き彫りになって辛くなってしまった。

 なぜだろう、どうしてこうなったのだろう、と思い浮かんだことを少しだけ整理して書き殴った。もし、大きく間違っていることや誤解していることがあれば、遠慮なく指摘していただきたい。

 いずれにせよ、南海トラフがくるぞくるぞと言いながら海抜の低い土地にひしめき合って生活しているのがコントの前振りみたいだな、と思っている今日この頃である。