でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『劇場』又吉直樹

 単行本ではなく『新潮』で読んだ。この作品が掲載されているのは2017年の4月号だから発売からおよそ1年経っていることになる。それでも私の積ん読のなかでは古参というわけでもない。新しいのを買わなければいいのだが、それは本を読むより難しい。

 この作品に関しては買ってすぐに積ん読に加わったわけではない。購入後すぐに10ページくらい読んだところで「これは不愉快な、めちゃくちゃ腹に溜まるタイプのやつだ」という直感があり、退職と引っ越しを控えてカッカしてる頭で読むべきではないと思って距離を置いたのだ。先日ぼんやりと書架を眺めていたところ目に止まり、そろそろ読んでみるかと思って再び手に取った次第である。

 

 そして読み終わったわけだが、……予想の3倍くらい不愉快になった。

 すごい。個人的に嫌いな人しか出てこない。これは疲弊している1年前に読まなくてよかった。いや、たぶん読めなかった。いらいらしすぎて途中で投げた。

 勘違いしないで欲しいのだが、作品自体は非常に面白い。面白い、と言ってしまうと達観しすぎか。中盤からはラストまでずっといらいらしていたので、目が離せない、興味深い、が正確かもしれない。前作の『火花』も良かったが、本作のほうがより生気や情熱が生々しく表現されていて、剥き出しになった内面やエゴ、それに対する内省も含めて深い考察が加えられていると感じた。『火花』が〈お笑い〉というジャンルへの比重が極めて大きい構成だったのに対し、本作は少しテーマが広くなり、そのぶん人生観への考察や描写に割かれるページが増えたのかもしれない。

 まったく好みではない登場人物と愛着を感じられないテーマでありながら、そこで語られる考察や論理、人物の生き方などを見ればこの作品が純文学として傑出した出来であることは疑いようがない。前作ではお笑いをモチーフとし、今作では劇団や脚本家の生き方を主体にしているが、そうしたエンターテイメント性の強い題材を主軸に据えながら、作品としては読者を楽しませる意図を一切見せず(少なくとも露骨に見せてはいない)それを追求する人間自体への洞察が切実な筆致で描き出されている。

 特に本作は特殊な環境と人物を設定することで人間の本質を炙り出そうという明確な意図が見られる。露悪的な表現でそれらを研ぎ澄ます一方で、日常が持つ冗長性と懐の深さに生活を融合させた結果生まれる、人間の生き方を現実的に書こうとしている。リアリスティックすぎずロマンティックすぎない、その両面を持ち合わせるからこそ、この作品は模範的な純文学だと感じている。

 

 読書メーターのあらすじによると「たったひとつの不器用な恋。夢と現実のはざまでもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う、切なくも胸にせまる恋愛小説」とあるが、個人的にはそういうレベルを超越した、もっと人の本質に迫る物語であるように思う。

 主人公の永田は夢のために現実を犠牲にすることを最初からすでに決めている。かけがえのない大切な誰か、よりも、自分と夢を選んでしまう自分を認めている。もちろん永田はそうした態度が生む摩擦や衝突に深く悩み苛立つのだが、そうした葛藤の原因は〈理想〉に対してなぜ〈現実〉が近づいてこないのか、なぜ他者からの理解が得られないのか、という独善性によるところが大きい。普通の小説であれば、主人公は迷ったときに相手に歩み寄ったり相手を理解しようとする。新しい価値観や協調性のなかでしか育めないものに価値を見出そうとする。そうした擦り合わせを、永田は徹底的にしない。

 自らの価値観と信念をもっとも尊ぶという強い生き様が確立されている一方で、永田は人間的には弱い存在として描かれる。冒頭では幽霊のような姿で街を徘徊している場面から始まり、ひとりでいることを恐れ、怠惰で刹那的な生活をする自分をときに反省する。彼のそうした人間臭さや掲げる夢を理解し、暖かく交流を持つことを厭わない人に対しても、永田は自らの思考回路にそぐわない場合には自覚的であれ無自覚であれ、はっきりと腹を立て、異を唱える。

 だから読んでいて不愉快になる。なんなんだ、この主人公のバカは。なんで永田の友人や彼女はこんなヤツに付き合って、面白くない思いをするんだ。どうして誰も、こいつに対して言い返さないんだ?

 

 ここがポイントである。なぜ、言い返さないのか。

 永田が戦っているのは、不満を露わにしているのは、目の前でこの物語を読んでいる読者だからだ。この物語を異質として読む読者とこそ、永田(と著者)は斬り結んでいるのだ。

 だから本書はどこまでも永田の思想と行動に執着し、安易な折衷案を良しとしない。彼の世界観、彼の迷い、彼の苛立ち、そういうものを次々とぶつけてくる。そこに否応無く現れる読者の心の動きはすべて、永田の生き方と衝突するなかで輪郭を作り像を結んでいく。次第に永田が理想と掲げ、人生を賭けて追おうとしているものがあまりに脆く、同時にはっきりとした形を取らないものであることが感ぜられてくる。

 結局、永田も読者も物語を追うなかで最後まで迷い続けることになる。永田が夢見たものはそういう過程を経なくてはならないものであり、永田自身も不合理だと思うような選択をしながら続けなければならない生き方そのものであるのだ。そうした様々な葛藤に触れることで、読者が触発される感情がなんなのか。そうしたものをすべてひっくるめて存在し続ける東京という街の懐の深さ、無数にある生活という存在、恋愛や友愛といった人と人との関わりが生むもの、そうした混沌を意識し観測させるために刺し込まれた針のような小説ではないか、そんなふうに感じている。

 

 正直、この小説の登場人物は誰ひとり好きになれない。主人公の永田も、彼にはっきりと自分を主張できない彼女や友人も、永田と同じように自分の価値観に絶対の自信を持つ知人たちも、みんなそれぞれ頭にくる。そして感情移入がまったくできないからこそ、彼らや彼女らの言動はきちんと読み解かないと理解できんぞという一種の緊張感も生んでいる。

 それだけなら疲弊してしまうかもしれないが、著者がふとした場面で描く人や風景の描写は驚くほど優しく、美しい。生活のなかにあるちょっとした輝きや少し寂しい雰囲気を背景として綺麗に切り取るからこそ、人が持つ影の重みが活きるのかもしれない。まさに『劇場』に引き込まれるような作風だった。