でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『生き方の問題』乗代雄介

 現在発売中の『群像』6月号に掲載。

 先日べた褒めした『美しい顔』も同じ雑誌に載っているのだが、これはちょっとした奇跡である。本作の著者、乗代雄介氏も3年前に第58回群像新人文学賞を受賞していることもそうであるし、なにより両方の作品が揃って抜群に面白い。そんな『群像』6月号は980円で販売中である。明らかに価格破壊なので是非書店でお求めいただきたい。まあ置いてない書店も多いけど(私はamazonで買った)。

 

 さて、本作。主人公の語り口にはいつもの乗代節というか、豊富な語彙と表現力を淡々と流れるように展開させるスタンスこそそのままであるが、普段の洗練の途中にある都会の知識人めいた雰囲気とは少し違って、青年に成り立ての地方出身の少年のような、少し変わった印象を抱いた。

 作者はとにかく言葉を巧みに、しかも縦横無尽に使うので登場人物にはいつも老成した雰囲気が漂うのだが、一方で圧倒的な観察眼や論理性とは裏腹に、社会的な感性や常識から簡単にはみ出してしまう脆さや若さも同居している。相反するものを抱えながら表面上は静かに、内面は途方もなく渦巻いているような人間の描き方にこそ、リアルやフィクションを超えて概念的、個人的にはあまり好きな表現ではないが哲学的に人間を描く作者独特の面白さと魅力があるように思う。

 

 本作は主人公から従姉妹に宛てた手紙という体で書かれている。いつもの古今東西を問わぬ文学史からの引用や考察こそ(比較的)なりを潜めているが、代わりに〈書く〉ということに対する極めて深い追求がなされている。

 著者は以前の著作『本物の読書家』において、自身の読者としての在り方をスリリングでミステリアスな作品にして示した。対照的に今作では作者としての信念や葛藤を、妖艶で刺激的な物語に込めて読者に放ってきたように思う。

 

 この作品では若い男女の逢瀬が大きな流れとなっている。世俗的で生活臭の強い原風景のような落ち着いた雰囲気がありながら、同時にそれは肉体的な重なりを希求する姿を現実的なものとして強く印象付けるように作用する。冷静な文体の中に従姉妹への執着の生々しさが、不穏当な緊迫感を絶えず漂わせている。

 この一見読み解きやすく本能的に感受しやすい題材に、作者は「読者に向けて作品を書く」という作業への観点を含ませる。一方で自己の内面に深く潜り込み底知れず積もり続けていくリアリスティックで静かな側面を持ち、もう一方で過去や未来、自分や他人といった時間や次元の概念すら超えて文字通り無限の広がりを持つロマンティックで躍動的な可能性を持つそれは、相反するようでいて、しかし確実に同居している。

 その複雑怪奇な有様は青年の慕情(恋愛感情ほど感情移入の容易い感覚はない)と一体になって読者に語り掛けてくるため、本来なら感じることのできない執筆者としての葛藤あるいは可能性を、一介の読者にもゾッとするほどリアルになぞらせる。アートとは新たな価値観を開き、既存のそれと融合させるものだというが(誰が言ったかは忘れた)ならばこの小説は間違いなくアートである。

 

 作中の表現において「左に無限に続く余白」に対する憂慮と希望があり、読まれるとも知れぬ手紙の在り方に対する嘆きと怒りが伺えるシーンがある。そこには主人公の青年の従姉妹に対する愛情の深さと、それを成就させるための唯一の道のりの困難さと深遠さを語ると共に、執筆中の小説家(というか著者本人)の心情の幾ばくかも見受けられるように思う。

 書いて伝えることの不完全さに半ば絶望し諦観を隠さない一方で、それによって現実では成し得ない世界の共有と神秘性の交換ができる〈かもしれない〉という強い希望の存在。それはあまり勝ち目のない恋文のような痛切さのイメージで降り立つ。

 いつかそれが真の意味で受け取られることを夢見ながら、すべての小説家は言葉を紡いでいるのかと想像するだけで、机の横にある瑣末な書架が輝くような、恐ろしいような、不思議な存在のように感じられてくる。

 

 さて。ずいぶん感傷的な文体で感想を纏めてしまったがこの小説自体の読み味は、ちょっと怖い、というのが正直なところだ。乗代さんはホラーの素質もあるようだ。すごい。

 後半になって手紙を書かれた目的が次第に明らかになるにつれ、その着地点の不在や行き止まりと隘路だらけの読後が想像されてくる。ラストの少し手前で物語の終わりが提示されており(とんでもねえ手法だ)、最後の部分はエピソードとしては示唆に富むものの、それが物語全体にどのような影響を与えるか想像がしにくい。二人が交点を失いながらも日常としての道をそれぞれ進むのか、あるいは作中で青年が持ち上げた物騒な可能性が現実となるのか。どちらも多分にありそうで、それは手紙を宛てられた従姉妹(読者)にこそ判断が委ねられているのだ。

 

 本作からは奔放に動く肉体と、正確で冷たい機械のような印象が交互に訪れた。不思議な感覚だと思いながら読んでいたが、それはまさに現代の生き方そのものではないかと思い当たり、今更ながら背筋を冷やしている。

 何度読んでも面白い、発見の絶えない作品になりそうだ。