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読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』大澤真幸

 宇野常寛の社会評論を読んでいる際、ときどき引用や言及が及んでいたのでなんとなく名前を覚えていた作家。先日本屋をふらついていたところ本書を発見し、タイトルからも『母性のディストピア』や『リトル・ピープルの時代』と地続きな印象を受けたので購入した。

 この本は早稲田大学文化構想学部で著者が行った講義を元に執筆されており、扱われるサブカルの題材も『シン・ゴジラ』や『君の名は。』、『おそ松さん』に『逃げ恥』と比較的新しい切り口が多い。そうした取っつきやすい社会的ブームから、現在の日本人が戦後レジームとその崩壊を経てどのように変化し、どのような現象が見受けられるようになったのかを明らかにしていく。

  と、このような概要を加えると「オタクの観点から社会動向を語ることに意味があるのか」と怪訝な表情を浮かべる人も多そうだが、それは杞憂なので安心されたい。

 

 日本が敗戦からGHQによる占領を経て、その後経済成長を遂げてバブルを経験し、低成長時代に突入して久しい。その経過の様々な段階において、日本人は自らの「物語性」というものを明確に設定することができなくなってしまった。この実質的なメインカルチャーの喪失と、それを埋め合わせる形で発展してきたサブカルチャーの関係性については前述の宇野常寛が詳しい。著者の視点はタイトルの通り、資本主義の終わりとその先まで、サブカルの想像力が及ぶことができるのか、を大きなテーマとして敗戦直後から昨今のブームまでを見つめ直す。

 99年のノストラダムス予言に代表される終末思想をはじめ、9.11テロやリーマンショックなど、経済的にも社会情勢的にも「資本主義社会には限界が見え始めており、早晩崩壊するのではないか」という予感自体は四半世紀前から存在していた。様々なハルマゲドン(最終戦争)の物語が描かれ、多種多様なカタストロフィやポストアポカリプトを扱った作品が描かれる一方、「どのようにして資本主義が終わるのか」や「終わった後にどんな社会が訪れるのか」という流れを持った想像力はほとんど見ることができないと著者は指摘する。

 終わりのイメージが見えるということは、その次のビジョンが見えているからこそ起きる現象である。しかし現在の人々は資本主義の終わりを予感しつつも、その次に訪れる社会像を捉えることができていない。物語においても資本主義は核戦争や大規模自然災害で突然にぶつんと終わり、人類が滅亡したり人間の概念が変化するなどの大きな出来事の中で曖昧に、ぼんやりとした形で消し去られてしまう。我々はグローバルな資本主義に拮抗できる、フィクションとしての想像力をまずは手に入れなくてはならないのだ。

 

 著者は冒頭で挙げた作品を読み解きながら、フィクションを作る自由な想像力が捉えてきた範疇と、それが及ばなかった部分にメスを入れていく。フィクションという自由な空間において「なぜ、そのような着地になったのか?」という疑問を社会情勢に照らして解き明かすとともに、ブームになった作品のどこが視聴者に訴え、そこにどんな背景が隠されているかに焦点を当てる。

 そこで明らかになってくる現象は多彩で、いずれも示唆に富んでいる。著者の言及する内容は日本における現象に留まらず、イギリスのEU離脱やアメリカにおけるトランプ大統領の誕生など世界的な潮流として観測される点も興味深い。

 これら「予想外」が端的に現していることは、人間の構想力(想像力)が現実に敗北しているという点にある。このズレは、我々の想像力が実際の具体的な問題点や要点を見逃しているという事実に他ならない。私たちには現実に即した大きな物語を描く想像力が欠如(あるいは衰退)してきている。そうした大きな物語の難しさに変わる形でナショナリズムめいた短絡的な思考に傾倒したり、密室でしか通用しない平和憲法の物語を崇拝することに通じている……となるのが宇野常寛の視点になるだろうか。

 

 文化の牽引役であったサブカルチャーが現実の壁を超えて飛び立つためには、なにが必要か。この途方もない、しかし極めて興味深い問題に本書は深く切り込んでいる。

 あまり愉快な将来を想像する作業ではないものの、最近の話題作を掘り下げ、その動向から社会像を想像することは純粋に知的探究心を満たす喜びがある。

 著者のあとがきから引用すると、

__本書は、概念と想像力がどのように出会うかを示すひとつの実例である。それが成功しているかどうかの指標は、楽しいかどうかである。どんなに悲惨なことが論じられていても、概念と想像力がうまく交差しているときには、知ることの歓びが生ずる。__

 この感覚。我々の概念と想像力が絡み合い、軽やかな足取りで悲惨な状況を闊歩し、そこからなにかを持ち帰ってくること。この重要な作業がサブカルチャーを支えてきた歴史的重要性であり、今後期待される役割にもなるであろう。