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読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』高橋ユキ

 久しぶりの読書感想。この本を読み終えたのは少し前で、読んだ直後に感想を半分ほど書いたまま放置していた。たまにある「つらつら書いてきたけど、こんな感想だったかしら」という自分に嘘をついているような疑念がふつふつと湧いてきて、文章を続けるのが気重に感じられたからだ。少し時間を置いて落ち着いてきたところもあるので再チャレンジしてみよう。

 

 さて、本作は2013年7月に山口県の寒村で起きた連続放火殺人を追ったルポルタージュである。
 5人の人間に執拗な暴行を加えて撲殺し、住居に放火する残虐性。さらに容疑者の生家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という犯行をほのめかすような貼紙があったことから、あっという間に世間の耳目を引くことになる。
 あまりに猟奇的なこの事件は、またたく間に人口に膾炙し「閉鎖的な限界集落で起きた『平成の津山三十人殺し』」として様々な憶測や噂が飛び交うようになった。
 加えて、逮捕された容疑者が語った動機からは、都会から故郷に戻るも地域に溶け込めず、住民とは深い溝があったことが判明。農村社会の幻想に対する批判まで噴出し、騒動にはさらに拍車がかかる。果たしてこの村ではなにが起きていたのか?

 

 このセンセーショナルな事件において、実際になにがあったのかを調査するために著者は現地に向かう。取材する中で住民たちから得られた「うわさ話」を、メディアとSNSが語ってきた「物語」と付き合わせ、そこから事実を探ろうとする。
 おびただしい数のグレーを白と黒により分けながら、それでも残り続けるグレーに焦点を当て、なにがそれをグレーたらしめているのかを問い続ける。そんなスタイルで書き連ねられたノンフィクションだった。

 

 ……はい。ここでちょっと反則技なまとめ方をしてしまうが、結果的に本書は真相にはたどり着かない。なにが原因だったかを克明に突きつけることはできなかったし、もっといえば動機に繋がる確実な物証を掴むこともできなかった。
 著者はこのルポをあるノンフィクション大賞に送ったところ評価はいまいちだったと述懐しているが、そりゃそうだと思う。真相に迫っていないのだから。

 しかし、本書が読者に投げ掛けてくるもっとも重要な示唆は、そもそも「真相」というほどはっきりとしたものが、この事件の根幹には存在しないことを浮き彫りにした点にある。
 極めて少人数の集落が持つ、単純でいて同時に複雑な人間関係と、一般の感覚からは乖離した常識の中で生活する人々。物語を語る村人の価値観に「あれっ?」と思わせる歪みがちらりと見えるものの、そこで語られる「うわさ話」は生活に根ざし、行動の規範にすらなっている。実際にあったことや記録されていること以上の重みをもって「うわさ話」は肥大し、同時に細分化している。ふたりという最小人数の関係性で語られる噂。集落全体の噂。別の集落から見た、その集落の噂。そして、おおっぴらに語られる噂と、限られた人々でだけ語られる秘密の噂。

 こうした掴みどころがなく、それでいて逃れることのできないコミュニケーションの檻とでも呼ぶような存在が、事件の背景として次第に明らかになっていく構成には戦慄させられた。
 ひるがえって、こうした「うわさ話」によるナラティブの獲得と疎外とでも呼ぶべき現象は、事件の舞台となった限界集落以上に、いまこのSNS全盛期のコミュニティに対して暗い影を落としているのではないかと思わずにはいられない。


 前段で「本書は真相にはたどり着かない」と書いているが、そのことは本書の完成度にまったく影響するものではない。
 それらがそもそもコミュニケーションの一形態でしかない「うわさ話」であり、犯罪を犯した当人までもがすでに妄想の世界に深く逃げ込んでしまったことにより「真相」を探る術は完全に消失してしまっている。本書の目的は「真相」がすでに存在しなくなったという「事実」を明らかにすることにあったと思う。
 真実は証言者の数だけ存在し、その真実は極めて限られた共同体でのみ共有される「うわさ話」を元にして構成されている。人によっては確かにあったものはなかったことになり、なかったことがあったことにもなる。それは誰かが悪いわけではなく、そうした社会で生活していることに起因する。

 

 大ヒットした『サピエンス全史』において、人類が生物種としての覇権を握るうえでもっとも重要だった進化の要素が「うわさ話」をすることだと書かれた箇所があった。
 ヒトは「うわさ話」をすること、つまり「架空の物語」を考えること、語ることによって集団を同じ目的のために協力させることができた。その技能は宗教として発展し、文化の形成に繋がっていく。
 初期の「うわさ話」は、集団の中で誰が協力的で誰が嘘つきかを見極め、集団の生存力を高めるために役立ったという。そうした機能によって今日の大繁栄を築いた人類は、当然ながら噂話が大好きで、それに依存することをやめられない。

 さて、現代において「うわさ話」は生存活動においてますます重要な地位を占めつつある。否、これまでの社会生活において噂が重要でない時代など存在しなかった。単純にこれからもそうだ、というだけの話だ。
 しかし、現在のグローバル化が進んだ社会において、我々が所属する集団の大きさは「うわさ話」でまとめ上げられる許容範囲を大きく超えている(『サピエンス全史』では、一集団が噂話でまとめられるのは150人まで、としっかり規定されている)。それでも私たちは、おそらくは遺伝子的なレベルで噂から逃れることはできず、そこから好き嫌いを決め、判断を下し、生活の基盤を形作っていくことになるだろう。そこには必ずひずみが生じ、そのひずみはなにかの形で、たとえば今回のような事件で噴出することがあるのではなかろうか。

 

 普段何気なく交わすコミュニケーションという枠(檻でもいいが)の存在と、「うわさ話」というヒトを駆動する正体不明の力について、私たちはもう少し慎重になるべきなのかもしれない。