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読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『ヒトラー演説 熱狂の真実』高田博行

 Twitterで某アカウントが突然おすすめしていたのがツボにハマって買ってしまった本。普段は小室哲哉氏をネタにしたキチ○イなツイートばかりしているのだが、一方で時折さらりと含まれる語彙や比喩には高い知性が隠しきれていない奇妙な御仁である。なんらかの社会実験的な楽しみ方をしているのか、そこまで深く考えていない愉快犯なのか……。いずれにせよ今時珍しい、とてもTwitterらしいアカウントである。なお、たまに回ってくるリツイートでお腹いっぱいなのでフォローはしていない。

 

 さて、本書。語るも忌まわしき独裁者として有名なヒトラーを、独裁者たる存在としていまだに特徴付けている〈演説〉に焦点を当てることで、その内情を深く掘り下げた一冊である。
 ドイツ語学者である筆者が政界登場から敗戦までの25年間、150万語におよぶ演説データを分析して熱狂と煽動の要因を探るとともに、歴史資料から民衆の反応などを含めて演説がどのような効果をもたらし、同時に〈なにができなかったのか〉も明らかにしていく。

 先に触れてしまうが、本書が明らかにすることは演説の持つ影響力と大衆を煽り、動かしていく言葉が持つ恐るべきチカラ……だけではない。結果的には、その限界と様々な要素が組み合わさることがない限り発揮できない、極めて限定的な魔術であることを断定している。
 しかし、冒頭でちらと触れたように、いまだ独裁者としてのヒトラーナチスの暴虐さは、こと我が国においてはそのイメージのみが一人歩きをし、なにがそこまで恐ろしかったのか、なぜ民衆はそこまで傾倒してしまったのか、なぜその熱狂は長続きせずに敗れ去ったのか、など数々の疑問について表面的にすら理解できているとは言い難い。そして、その「イメージによる熱狂の創造」こそ、ヒトラー演説の目的であったことは本書以外でも盛んに議論されるところである。
 だとすれば、ナチスの恐ろしさがイメージによってしか捕捉できていない現状は、大戦終結から75年を経たいまも、ヒトラーが仕掛けた演説という魔術から民衆が解き放たれてはいない証左だと言えよう。昨今の「コロナウイルスを正しく恐れよう」というスローガンが繰り返される情勢もまた、我々の歴史から学ぶことのない不勉強さを強く非難しているように感じられるのは気のせいではあるまい。
 そうした疑問や立ち振る舞いについて、本書は十分な示唆と反省を与えてくれる。ここまで読んで気になった方は、ぜひ購入して目を通していただきたい。

 

 私は高校生時代に学習指導要領のスキを突いてしまった世代に当たり、世界史と日本史をまったく履修していない(地理だけは学んだ)。その後、多少独学で学んだとはいえ、現在の大学生や高校生と比べて数段落ちる教養しか持ち合わせていない自覚はあるので、歴史的な考察は避け、演説について少し私心を挟みたい。

 演説について、歴史的にもっとも早く顔を出すのは哲学者アリストテレスの『弁論術』だろう。概要だけまとめてしまえば、人を説得して動かすための弁論術(レトリック)に必要なものは、ロゴス(論理)、エトス(倫理)、パトス(情熱)の3要素であると説き、その技巧を洗練させたのがアリストテレスである。
 一方で、アリストテレスの師匠筋に当たるプラトンソクラテスは、この『弁論術』を危険視していた。弁論はいわば〈まやかし〉であってそこに真実はない、として対話(ダイアローグ)の立場を重要視するのが後者の視点だった。
 この比較の興味深い点は、弁論と対話が違う概念として区別されているところにあり、弁論が個人の立身出世など利己的な目的で用いられ道徳的に劣るとして非難されている一方、対話はお互いの理解を深め、道徳的な真理の追求に役立つものと見なされている。元来の目的が違っているわけだから手段としての洗練も異なってくるわけだ。

 現代では、日本でもスピーチの能力については年々重要視されてきているそうで、学校教育にもそうした機会は数多く取り入れられていると聞く。自分の意見を表明すること、発信できることはいいことだ、と教えているのだろうが、大切なことは上記の〈弁論〉と〈対話〉の区別をきちんとさせることではあるまいか。
 自分のことを伝えるための言葉と、相手との理解を深めたいために話す言葉とでは、思考も言葉の選択も変わってきて当然である。しかし、スピーチという考え方を念頭に置いた場合、おそらくは〈弁論〉の概念にのみ特化した技術が洗練されていくように思う。
 その思考はたぶん、より強い〈弁論〉に対しては平伏し、礼賛してしまう考え方を育むのではないか。それが、ヒトラーに惑わされた人たちになってしまう、と言ったら飛躍がすぎるだろうか。

 個人的な感想としては智者と言われる人たちを論破するのをライフワークにしていたソクラテスが〈対話〉の能力に長けていたとはあまり思えないのだが(相当性格悪いと思う)、1対多の議論や多対多の議論が横行するSNS界隈においては、弁論が根本的にはまやかしであるという危険性を頭の片隅に置いた上で一歩引いた視点が重要だと今更ながら考えている。

 

 随分と横道というかギリシャ哲学に逸れてしまった。今更ながら私は哲学を専行しているわけでもないので、細かな間違いがあればご容赦願いたい(大きな間違いは恥ずかしいので指摘していただければ幸いである)。

 ヒトラー演説に戻れば、ヒトラーの影響力が一気に強力になったのは、スピーカーと映画の登場によるものが大きかった。より遠くまで声を響かせ、より多くの人々にその姿と演説を聞かせることができたからだ。演説自体の単語の並べ方や構成については入念に研究されていたものの、決して伊藤計劃の『虐殺器官』にあるような、特定のフレーズによって民衆を暴動に駆り立てたりできた訳ではない。

 そしてその魔術的なチカラが衰えたのも、やはりラジオや映画に頼ったところが大きかったと本書では指摘されている。つまり、民衆は四六時中絶えず聴取することを強いられる演説に飽きてしまったのだ。演説が熱狂を持って支持されるためには、共感とライブ感が必要であり、それらは演説の内容はもちろんだが民衆の反応があって初めて大きな力となる。歓迎されない演説に力はなく、そうしてドイツは敗戦の道を辿っていった。

 

 ナチス第一次大戦の補償に喘ぐドイツ国民に希望を提げて支持を獲得していった演説は、本書を読んでいるぶんには多分に独善的で、とても心酔できるものとは思えない。だが、これは私がいま貧困でもなければ社会に不満を持っているわけでもない、その環境によるところが大きいのだろう。

 いま世界を蝕んでいるコロナ禍は、ダメージの大きい国ほど、国民を一つにしよう、誇らしい祖国よもう一度、というような見方によっては閉塞的な団結を掲げているようにも見える。

 グローバリズムの急所を突く形となった今回の惨事が終わったとき、その痛手から回復するために、なにやら特効薬と甘言を持って現れる政治家がいたとしたら、少し警戒した方がいいかもしれない、と纏めたら少し意地悪すぎるだろうか。