でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

『麒麟がくる』に失望した話

 久々にブログで「記事作成」をクリックした。やっほー、いわしだよ。

 いま私の心は千々に乱れている。
 というのも、先ほど最終回を視聴した『麒麟がくる』のラストがあまりにもダメダメだったからだ。久々に、本当に心の底からがっかりしている。10年くらい前、最後に付き合っていた相手からフラれたとき以来のがっかりだと思う。歴史的がっかりである。いや、マジでがっかりした。
 これからメタメタにこき下ろすので先に申し添えておくが、ここ最近ではぶっちぎりで面白い大河ドラマだったと思う。脚本、役者、映像、遊び心、いずれも最高点に近い満足度だった(殺陣のスピード感はイマイチだったが、最近満足な殺陣を見ていないのでまあ及第点か)。私も最終回までは、というかラストの10分前までは熱中しながら視聴していた。今日までの丸1年以上、毎週日曜日の夕刻を楽しみにしていたし毎回その期待を裏切らなかった。まさに今日、最後の最後を迎えるまでは。
 ちょっとその辺りの心情を整理しようと思い、文章をしたためる次第である。

 さて、大河ドラマ麒麟がくる』。
 今作はそもそも設定がいい。戦国時代の動乱期、主人公はこれまで脇役としては見せ場に事欠かなかった明智光秀(十兵衛)。彼はどのようにして織田家家臣の筆頭となり、最後になぜ無謀な裏切りに走らなければならなかったのか。歴史上の知名度と物語の重要性において、極めて謎の多い人物である。

  単刀直入に言えば、視聴者が見たかったのは「明智光秀という戦国武将の決着」であった。

 しかし、この男を主役として語るうえで絶対に避けられないこの命題から、最後の最後にこのドラマは逃げてしまった。台無しである。お膳立てをばっちり整えてやってきたのに最後の最後にやってしまったのである。マジでどうしてしまったんだ。南雲艦隊か?

 先に述べたとおり、「本能寺の変」は日本史上最大のミステリーと称されるほど、諸説あり魅力ありの大事件である。そこにどのような視座を盛り込むのかに視聴者は注目していた。信長はなんとかなるとして、その後どうやって天下統一を果たすつもりだったのか、計画的かそれとも刹那的だったのか、あるいは黒幕がいたのか、朝廷や幕府と繋がりはあったのか、などなど、可能性を疑い出したら(妄想し始めたら、が正確か)キリがない。
 そして、残念なことに、このドラマはこのいずれもを否定した。選ぶことを諦めたのである。明智光秀を教科書どおりに、本能寺の変を起こし、その後すぐに討たれたもの以上の物語を与えることを拒否してしまった。とんでもない肩透かしである。

 これまでの物語において、十兵衛は立派な志と実力はあるものの、常に誰かの後ろか横に控える存在として描かれてきた。
 斎藤道三の配下として諸国を回る青年期、越前で浪人暮らしをしながらも公方様に評価され、京で地位を得ていく壮年期、織田家の家臣として名声を高めていく晩年期。いずれも十兵衛には「立てるべき誰か」がいて「その人を導くべき正しい道筋」があった。天下統一と下剋上が常にある世界において、十兵衛は「自分が矢面に立たなくても、然るべき誰かがそこに納まるであろう」という大局を持ち続け、それを成し遂げるであろう「あるじ」に封じる執事的な側面が非常に強く描かれていた。

 それが一気に覆されるのが本能寺の変、今日の最終回だった。
 常に誰かを立てるナンバー2として背を押す存在であった十兵衛が、いざ先頭に立ったとき、そこにどのような理想を掲げるのか。そして、日本史で明らかなように、その理想がどうしてこんなにも脆く、瞬時に崩れ去ることになってしまったのか。
 それこそが、日本史を履修した数多の学生に少しばかりの傷跡を残していったミステリーであり、『麒麟がくる』はその傷跡に徐々に徐々に迫っていく物語である……はずだった。蓋を開けてみれば、そこはまったくもぬけの空だったのである。
 否、空っぽならまだいい。そこには決着から逃げおおせただけの、なにもせずに生きているであろう明智光秀の姿があった。私は、ああ、これは見事な裏切りだ、と感じてしまった。

 本能寺の変で「織田信長の合わせ鏡としての明智光秀」という決着しか付けられなかったことは大いに不満であるし、もっと言えば怠慢であったと思う。そういうのは、主人公が織田信長大河ドラマでやればいいのであって、本作でやるべきことではない
 本能寺で信長を討ち滅ぼした後に明智がどうなったかは教科書のとおりである。しかし、明智光秀という男の人生は、三日天下と呼ばれながらも、秀吉との山崎の戦いを経て落武者狩りで命を絶たれるまで続いたのであり、それまでには様々な深謀遠慮があったはずである。そして、明智光秀が主人公であるならば、それを描かねばならなかったのではないか。むしろ、明智光秀が主人公だからこそ、それを絶対に描かなければならなかったのである。

 今作は、本能寺の変織田信長が死んだことで幕を閉じてしまった。「麒麟がくる世を作ってみせる」と十兵衛は啖呵を切るが、その後はナレーションで終わってしまう。
 肝心なのは、初めて天下統一の矢面に立った明智光秀が、なにを考え、なにを理想とし、どういう世の中を作ろうと動き、それがなにに邪魔をされて、負けてしまうことになったのか、にある。
 それが本作では一切語られない。というか、重要視されていない。果てには「光秀様は生きておられるようですよ」などと言って、それらしい武士が馬を走らせて終わってしまう。十兵衛は、戦国の世を平かにする理想を他人に任せ、自分はのこのこと生き長らえて市中見物をするような凡愚に成り果ててしまったのであろうか?
 大体、最終回の本能寺の変の描き方もおかしい。『麒麟がくる』を「あ、コレは面白い大河ですわ」と思わせたのはオープニングの功績が大きい。この炎をバックに勇壮な音楽とともに描かれる描写こそ本能寺ではなかったのか。どっこい、最終回の十兵衛は、本能寺の門の前で馬に乗っていただけである。なにもしていない。プルプルしていただけである。じゃあオープニングなんだったの。あれ。炎の中叫ぶ光秀はなんのカットだったのあれ。比叡山焼き討ち? よく考えたら本能寺の変夏至も近い頃の早朝なので、オープニングは暗すぎる気がしてきた。じゃあますますなにあれ。キャンプファイヤー? もうクシャクシャである。助けてくれ。

 明智光秀は、歴史の敗残者であるし、その事実に覆しようはない。だからこそ、その負け方や、負けた後の心持ち、なにを残して誰に託したかを、どう描くのかが見たかった。そうした、負けた者の決着を描くことから、本作は最後の最後に、決定的に逃げてしまった。それが至極残念である。がっかりである。

 これを最後に『麒麟がくる』の話はどこでもしない。Twitterにも書かないし、日常会話でも避けようと思う。炎上すらマーケティングという利になる世の中においては、話題にしないことこそが創作者への最大の復讐になるからだ。
 そして、そういう復讐を決意させる程度には、最後の10分だけで受け入れ難い作品になってしまったのである。私は『麒麟がくる』に対して、一視聴者として精一杯復讐しようと思う。

 ペットは、どんなに可愛くても死別が辛いので飼わない方がいいという意見がある。
 本作も同じで、どんなに面白くても、最後の最後がアレだったら最初から見ない方がよかったのではないか、そんな気持ちにさせる作品だった。尤も、私はもう手の中で冷たくなったそれを、完全に捨ててしまうつもりでこの文章を書いている。本当にどうしてこんなことになってしまったのだ。なぜ。