でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

蔑称の話

Twitterをよく利用している。情報の入手から友人知人の生活の様子まで幅広く、ほどよく浅く、自分のペースで覗ける非常に優れたツールだ。気に入っている。

とはいえ快適なばかりとも言えず、自分の庭となっているテリトリーから目を離して、少し世間を眺めてみるとだいたい面白くないことばかりが目に入る。基本的に、私もそうだが口が悪くて極論が多い。そのあけすけさが良いところでもあるのだが、趣味嗜好が違う相手の場合は当然愉快な気持ちはしない。

そしてこのツールは愉快なときも不愉快なときも極めて簡単に自分の素直な心境をアウトプットできてしまうので、さらに極端な方向へ転がり易い。

いまに始まったことではなく、インターネット界隈では日々様々な罵詈雑言が飛び交い、皮肉の効いた蔑称があらゆるところで生まれている。中にはテキサスヒットを飛ばして日常会話レベルまで出しゃばってくる物もあるが、大抵は流れ続ける情報の波にさらわれて次第に見えなくなっていく。蔑称なので残しておく理由もあまり無い。

最近よく見かけるようになったものでは「クソリプ」がある。呟かれたツイートに対して、内容や態度やタイミングなどがクソとしか呼べないリプライ(返信)に授けられた蔑称である。RTが500を超えているような人気のあるツイートにはだいたいこれがへばりついている。

少し前には、ニコニコ動画などで活動している「歌い手」を名乗る人たちの蔑称として「インターネットカラオケマン」という蔑称が一瞬流行ったこともあった。既存の完成された楽曲をただ歌っているだけなのに一丁前にクリエイターぶっている一部の歌い手に事実を突きつけた名称だ。

これら蔑称は、おそらくクソリプをすっ飛ばしてくる所謂「意識高い系」の人たちや(これも蔑称のはずだが、意識が高い、という表現に侮蔑的ニュアンスが含まれていないので高度な皮肉か)、腹持ちならない歌い手に業を煮やした誰かが溜飲を下げるために考えたのだろう。

あわよくばこういった恥ずかしい名前で呼ぶ事によってこの手合の活動を抑制できるのではないかという一縷の望みも含まれているように思う。そういう期待に叶うシャクナゲのように繊細な人たちばかりだったら多少平穏な世の中であったかもしれない。

時代劇でよく聞く「拙者」。自らを拙い者、と名乗る謙譲表現だ。自分も固い場での挨拶では「浅学非才の身ではありますが…」などと言ったりする。自分を低い存在にして相手を敬うという日本ならではの奥ゆかしい作法である。これに先ほどの蔑称は取り込まれてしまう。

先の例で言うと、自らを「歌い手です」と名乗っていた人たちの一部は面白がって「インターネットカラオケマンです」と名乗るようになる。開き直ってそう言われてしまえば、もう蔑称としての能力はない。蔑称は浴びせた相手が嫌がらなくては意味がない。

クソリプにしてもそうで、自己紹介に「クソリプ飛ばします。ご勘弁」とか書いてるヤツがいたりする。そして実際に的外れなことで突っかかってみたり、半年も前のツイートに難癖をつけてみたりするのだ。すごい。地獄か、と思う。

こうなると溜飲を下げるどころの話ではない。相手はむしろ開き直り、その蔑称の持つイメージ自体を免罪符にしてさらにスカレートした態度を取り続ける。地獄か。

汚い言葉や意地悪な気持ちでふるいに掛けようとすると、そこには浴びせた言葉以上にどうしようもない物が残るし、それはたぶんふるいに掛けた人自身にも面白くない作用をもたらしてくる。

悪態や皮肉、侮蔑的な言葉を投げつけてスカッとするのは一瞬だけだ。少し時間を置いて、それに耐性を持ったさらにどうしようもない連中がやってくる。少なくとも目に入る。

幸い、インターネット界隈では見たくないものは見なくても済むし、苦手なものには近寄る前になんとなくわかる機能は備わっている。危ない物事には近寄らず、静かに大人しく自分の管理が行き届いた庭の中で遊んでいるのがよろしかろう。

…なんか割と普通に起承転結書いてしまったが、これを通して何が言いたかったのかが自分でもわからない。まあいいや。