でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

言葉に残すという話

継続と忍耐を今年のモットーに掲げていたが、早くもその象徴として始めたブログの更新が滞っている。読書もそうなのだが書くのも読むのも一時期に波がわーっと来たときはいくらでも時間を割いてしまうのだが、その波が引くと今度は半年くらいそれらをしなくても平気になったりする。熱しやすく冷めやすいのだ。

そもそもブログを書くみたいなアウトプットの作業は自分の中へのインプットが十分でないとなかなかスムーズにはいかない。では更新をサボっている間はインプットに集中しているのかというとそういうわけでもなかったりする。寝たりゲームしたり漫画読んだりアニメを見ていたりする。創造性に繋がらない純粋な消費を楽しんでいる。

何故かブログに書くような思考のアウトプットは情報のインプットと同時に行っている場合が多い。どうも創造的嗜好へのオンオフがアマゾンの雨期乾期のように極端なインターバルでやってくるらしい。書きたいことはそんなになくてもまあ書いてりゃ文章にはなる。今後もそうやって更新していく。

しかし書きたいことがあるときだって、書き連ねている最中は書いている内容に対してそこまで意見が定まっているわけではないように思う。書きながら形を与えて自分の中で納得させているというのが近いかもしれない。頭の中では考えているつもりでも、いざ文章を起こしてみるとまるで違う結論がでてきたりすることはままある。思考の文章と、書き綴る文章では少しはたらき自体が違うような気がしている。

いつだったか書いた気がするが、JPOPの歌詞なんかによく出てくる「言葉にしたら嘘になる」的な歌詞が嫌いだ。虫酸が走ると言ってもいい。その考え方自体が言葉というものを馬鹿にしているし、言葉を馬鹿にした考え方で歌を歌っているのが輪をかけて厭だ。

言葉は意思伝達機能としての作用はもちろんだが、それ以上に記録媒体としての役割が大きいと個人的に思っている。その時々に感じたことはきちんと言葉として納得のいくところに落とし込んでしまえば、そのまま記憶として残すことができる。

「言葉にしたら嘘になる」のは適切な言葉を選び抜けなかったその人の怠慢でしかない。嘘でなくなるまで言葉を探し抜かなくてはならない。表現力を磨かなくてはならない。

そのときどきの記憶はどう頑張ったって薄れていってしまう。それでも、そのときに「私はこう思ったのだ」という嘘にならない言葉で表現することができれば、そのときの感動はいくらか瑞々しさを保ってより長く記憶を温めることができるだろう。もちろん100%クリアな言葉は見つからないかもしれないが、それでも形を与えてやるというのは大事なことだ。名前をつけてやらなくては何物も長生きしない。

嗚呼、説教くさい。最近さらに説教くさくなった。これも年をとった影響か。しかしまあ大半は自分への説教なので許して欲しい。