でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

6月21日 夏の気配と音楽の政治利用とかなんとか

すっかり梅雨らしい天気になった。蒸し暑く天気が安定しない。これが終わると本格的な夏がやってくる。夏が持つ開放的なイメージは嫌いではないが暑いのがとにかく苦手なのでプラマイで言うと夏はあんまり好きでないという評価になる。社会人になってから圧倒的に嫌いになった気がするな、と思ったが学生にとっては夏休みのある夏を嫌いになる理由がないのでこれも当たり前か。

新潟で夏のイベントと言えばフジロックであるが、私はあまりロックミュージックを聴かないしライブにも熱心でないので行ったことがない。そもそも「フジロック」という名称なのだから富士山近辺でやってるもんだろうと勝手に思い込んでいて新潟県湯沢町の苗場スキー場が開催地だと知ったのもしばらく経ってからだった。ちなみに初期の開催場所が山梨県の富士天神スキー場だったのが名称の名残である。

さてそのフジロック。SEALDsの奥田氏や津田大介氏の出演が決まったことに対してTwitter上では「音楽に政治を持ち込むな」というタグまで作られて意見が飛び交った。

結論から言ってしまえば、フジロックのお客さんが楽しめる出し物になっていればそれでいいのでは、というのが私の意見である。

純粋に音楽を聴きに行っている人はそもそもそちらのステージに行くほど興味を持たないと思うし、一方でフジロックが掲げる「自然と音楽の共生」という主張自体に政治的とは言わないまでも一種の思想は見受けられるので、そのテーマと所縁のある人物がメッセージを発することも当然という気がする。

だいたい音楽は思想的メッセージを含まなければ形にならない。様々な主義主張、人生観、恋愛観、幸福論に基づいた歌詞がそうであるし、歌詞に現れなかったとしてもその音楽を作ろうというパッションの源泉となる思想信条が存在するはずである。クラシック音楽でもなんでも遡っていけば戦争勝利や建国を祝うために作られた曲というのは数多く存在する。

音楽と政治の分離を目指してしまうとそれは音楽自体の持つメッセージ性の否定になってしまうためパラドクス的な渦に巻き込まれる。そこに答えを求めるとかえって各々の好みによる選別が加えられてしまい、政治的な色を帯びかねないのではないか。

いまの音楽は社会システムとして流れるベクトルと流れを同じくして存在しているものではない。社会という大きすぎる生活の流動の中でそれに立ち止まったり、あるいは逆らってみたりした結果生まれてくる、社会から個人への回帰のようなものが現在の音楽の源になっているように思う。

それは決して社会を害そうとか否定しようという欲求ではないにしても、その根底にあるものについて語ろうとしたときには少なからず摩擦や衝突を生む要素が存在する気がしている。特にフジロックが掲げる「自然」へのリスペクトがその辺りを引っ張ってきてしまうように思う。

なんにせよ正直今回の騒動に関しては音楽的な嗜好の違いがあるように、政治思想にも嗜好の違いがあって、それに噛み付くような形で発生しているような気がした。

書きながら、どうして自分は奥田氏は大嫌いなのに津田氏には割と好感を持っているのだろうと思っていて文章に集中できなかった。長々書いてしまったので一応形を残すが、なんというか、とてもヘタクソな文章になってしまった。ううん。