でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

花火:8月28日の10分雑記と考察

盆休みに高校時代からの友人と花火を観に出かけた。いつも長い休みの取れるときには酒を飲みに集まるのだが、今年は都合の付く人数が多かったこともあって例年以上に楽しめた。グッジョブ、番長。本当に楽しかったです。

久しぶりにレジャーシートを敷いて見上げる花火は想像以上に綺麗で、腹に響く力強さも兼ね備えていた。思い返してみれば河川敷で腰を降ろして花火を見上げるのは二十年ぶりくらいになるのだろうか。学生時代を振り返ってもそれらしい記憶が見当たらない。
長いこと暮らしていた新潟県も長岡花火に代表されるように花火に力を入れている地域だったのだが、夏は新潟競馬場の開催期間だったので週末は毎度バイトに明け暮れていた。社会人になってからも時間が取れなかったので、二十歳前後で花火を観る機会を持てなかったのは痛恨の極みと言う他ない。当時は可愛い彼女もおったのに。あっ。とても悲しくなってきた。やめよう。

我々が出かけた「男鹿日本海花火」は今年で15回目。真夏の紅白歌合戦、というタイトルを掲げるだけあり花火が打ち上がる際には常にバックで歌が流れ、賑やかな雰囲気を醸し出していた。
会場にも人がぎっしり詰め掛けており、夜空に大輪が咲くたびにあちこちから歓声が上がっていた。日が沈んでからは肌寒いくらいの気候であったが、浴衣姿の観客たちはそんなことを気にする様子もなく談笑と喝采で大いに賑わっていた。
前年のデータを見ても打ち上げ数1万発、来場者数18万人となかなかに豪勢で盛況である。男鹿市の人口が3,000万弱なので相当な動員数と言っていいだろう。企画運営に尽力された方々に感謝したい。
秋田駅から男鹿駅までは電車で片道1時間。花火会場は駅のすぐ目の前だが、なにしろ観客数が多いために会場周辺はずいぶん混雑していた。とはいえストレスになるほどではなく参加しやすい規模の花火大会でもあった。また来年、タイミングが合うなら見物に出かけたい。

久しぶりに観る花火はとても楽しかったし感動的だった。綺麗な花火の映像はテレビでも観られるし、花火の轟音はある程度想像がつく。それでも生の迫力はそうした予測をはるかに凌ぐ瑞々しさがあり、いかに自分の出不精が勿体無かったかを反省させるに十分だった。
私たちは様々な出来事を文章やメディアを通じて知ることができる。情報として「知る」ことはもちろんとても大切なことだが、それを肌で感じて「わかった」ときにはそれ以上の感動があることも忘れてはならないと思い知らされた。

そんなことに触れている、以下原文である。



こないだの飲み会の際に友人の機転によって花火を見にいくことになった。かなり久々に近くで花火が観れるということで楽しみにしていたのだが、行ってみてよかった。とても楽しめた。予想以上に音の迫力がすごく、腹の中まで響きわたる轟音に驚かされた。そして夜空に打ち上げられる色とりどりの煌めきの美しさ。観衆のどよめきと笑い声。艶やかな浴衣姿。よかった。行き帰りで2時間使ったけれどもそれでもよかった。私は頭でっかちな気質があるので一度経験したことや、あるいは類似した経験則から知りもしないことを知ったかぶって語る悪癖がある。直したい。単に口を慎めばいいだけなのでいまからでも実行可能である。そうしたい。しかし経験則と言うのは外れないからアテにするのであって、自分でも「いやあこれは私が間違って降りました。本当に申し訳ございません」と、うなだれてしまうような出来事というのはそんなに多くあるわけでもない。それでも花火は本当に良かった。ありがとう。大曲の花火大会も絶対に開催できないと思っていた。だって河川敷の桟敷席は水浸しでドッカンドッカン朝方まですごい雨が降っていたのだ。これを初めて書いていたのもその雨の夜だった。ずいぶん眠れず、心配した物だ。翌朝の映像を観て「あかん」と思ったが、実は大曲の花火は長い歴史の中でも中止になったことがほとんどない。それも当日に土砂降られただけで、前日より前の雨で中止に追い込まれたのは皆無と言っていいそうだ。そもそも花火というのは夏にやるので突然の雨は付き物だという。だからそれを企画運営する方も、花火師も雨が降ることは100も承知でやっているそうだ。そういう天候なり環境なりが万全でない中で、お客さんのためにベストを尽くすのがお仕事だと何かのメディアで言っていて、簡単に「これは無理だろう」なんて言って御免なさいととても深く反省した次第だ。どんな物事にも真剣に取り組んでいる人がいて、そうした人たちのノウハウは素人の想定をはるかに凌いだところで切磋琢磨していることがある。そういう物を知らないであるいは無視して好き勝手口を出すことはとても愚かしく、害悪であろう。こういうところでちょっと愚痴めいて喋っているだけでそういうふうに思うのだから、それを会議でも仕事でもちゃんとした場でやられたらたまったもんであるまい。なぜか日本では一流の仕事人の中に、全くの素人が意見をしてそれがプロには出せない柔軟で示唆に富んだ意見で、とても役に立ちましたみたいなことがしょっちゅう起こるものと見なされているが、それは御伽噺の世界である。本当のプロは素人が思いつきそうなことぐらい余裕で想定済みであろうし、仮にそうしたプロもびっくりな意見が飛び出すとすればそれは同じく似たような立場で一線級にある人の意見であろう。半可通が適当なことを言ってそれが役に立つということはない。もちろん意見としてそれを聞く意味がないとまでは言わないが、それが解決に役立つというレベルまで行くかというとノーだろう。というか足を引っ張る。そして日本ではなぜか意見を言うことがとても良いことだとされていて。なんでもいいから喋れという風潮がある。その結果いろんな人が迷惑している気がする。吟味せよ。
8月28日 原文1,334字