でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

老化:8月27日の10分雑記と考察

3回目。表題にテーマを簡単に書くことにした。後から自分で見返すときに便利そうなので。
ちなみにブログにアップする日とタイトルの日付が1日ずれているのは、原文を一晩寝かせてからこの考察を書いているためだ。この考察も前2回はそこそこ時間を掛けて書いているが、だんだん簡素にしていくつもりである。

今回はこうした試みを必要としたもっと本質的な理由、いわゆる老化について漫然と考えた。
気がつけは30代も半ばに突入しており、ややもするとアラフォーが見えてくる年齢となった。幸い健康自体に問題はなくアレルギー性の鼻炎を除けば健康体そのものなのであるが、一般的な文化的幸福を享受しているかというとそうでもないのかもしれない。
とはいえ昨今の暮らし向きを見るに私たちの世代では生き方も多様化しているし「これがこうだから幸せ」というのは一般化しづらい部分もあるだろう。一方でそれは勝ち組と負け組の差が挽回不可能なほどに拡大してしまったため、持っているカードで戦うことが必要となり、生き方を天秤に掛けるの自体が馬鹿馬鹿しくなったから、という心理面も影響しているような気がする。
人間の「幸せ」は恒久的な安心感を指す言葉だと思う。リスクの少ない安穏とした生活がそれに当たる場合が多いだろうが、自分を競争や戦いの中に置かないと生きているという実感が湧かず不安になるという人もいるだろう。一部のアスリートや仕事人間はきっとそういう人だ。後者に前者の幸せを提供したときにそれは本当に幸せだろうかと考える。所詮これも与えることのできる要素ではないので無意味な仮定か。

さて、今回は肉体的な老化よりも精神的な老化、もっと言うと老化の兆しみたいな物について書いている。
大学を出てしばらくは身近に感じられていた学生時代がいまではすっかり遠い物になった。大学生はもとより中高生がどんな流行り廃りを経験し、なにを夢や目標として生きているのか。それを考えなくてはならない、と言うこと自体が自身の老化を雄弁に語っている。
いまのところ友好的な内容であるが、そのうち身体にも老化の波が押し寄せてきたら若さに嫉妬して説教くさいことを言うようになるのだろうか。

以下、原文である。
書き出しからテーマがすっと降りてきたので書きやすかった。文量が100字ほど伸びている。内容よりも2,000字到達が当面の目標であるが、はてさて。



ジジイになったなと思う。若者の文化を知らないからと言うよりは興味を持てなくなったからだ。大学生と繋がりがあった頃は、まだそうしたものに年に数回でも触れる機会があったが完全にそうした関連性も絶たれてしまった。だからいま若者が何を聞いたり何に興味を持っていたりするのか、私にはわからないのだ。と言うか知りたくもない、どうせくだらないものなんだろう、という先入観が少なからず混ざるようになり、ああこれはジジイになったと深く思ってしまった次第である。自分自身は高校生の頃から全く年を取ったような感覚がない。ずっと若いままだと錯覚しているような節があるのだが、なぜかと言うと将来に対する不安や危機感みたいのが未だにすごく薄いからだ。なんでもっと真剣にやったほうがいいであろう物事に手を抜くんだろうか。でもこれは高校生の頃からそうだったので私の人生における傾向というか性格だと思ったほうがいいんだろう。残念だ。いや直せよ。今日から少し頑張る。頑張る一環でこの作業をするようになったが、どこまで身を結ぶのかはわからない。本当はもっと書くべきことや読むべきものがあるのだけれど、これだって一つの逃避行動かもしれない。暇を有効に消化しなくてはならないという危機感があるのだとすれば、それを将来に重ねて少し真面目になっても良さそうなものだが。まあ9月のはじめに就職したいと思っているところの結果というか審査が始まるので、そこが一つターニングポイントになるのかなと思っている。働いていた頃はとにかく自由な時間がなかった。スマホでインターネットを眺めたり家に帰って酒を飲みながらぼんやりしているうちに朝がきた。車を運転しながら曲を聴いている時間が一番思索に頭を使っていたように思う。いまは車をほとんど運転しなくなり音楽を聴かなくなった。そうだ音楽の話だった。ジジイになったなと思ったのは最近の音楽を全然聴かなくなったからだ。しかし聴かなくてもいいと思っている。なぜならすでに聴いた歌で間に合うからだ。いいから流行るのではない。特に音楽はそうだろう。あれは同世代間で共有できるから、次々と似たような歌が生まれていると感じている。漫画の連載なんかもそうだ。傑作がどんどん生まれては貯まり、楽に読める時代が到来しているのに、未だに大小様々な媒体で漫画が執筆されているのはそれを共有し来週を楽しみにするという、現在進行形の消費形態が必要だからだ。そうして一緒に消費したものと消費に参加した友達や知人というのは記憶に残るし、後々思い出した時に良い思い出になったりもする。どうしてあんな下らない物に執着したのだろうかという疑問はふと沸くことがあるが、それは必要でありそうやって青春という形のないものに器を与えていたのだろう。そう考えてみるとスマホのゲームに費やしたお金と時間は無駄だったなと思う。共有さえしていればいいのだからお金を、特に万札を使う理由は一つもなかった。それでどこか楽しい場所で美味しいものでも食べたり飲んだりしたほうがよかった。まあ今更である。競馬をやらなくなったのもそういう経緯かもしれない。一緒に語ったり考えたりする仲間がいなくなってしまったからだ。スマホゲーが流行っているのも、そういう居場所を作るという意味合いが強いのかもしれない。ほらこの考え方が実にジジイだろう。
8月27日 原文1,363字