でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

ヒソヒソ・イマージェンシー

 学校が春休みになったせいか、図書館には小・中学生くらいの学生が目立つ。私がそのくらいの年代だった頃には、図書館で勉強しようなどという殊勝な気持ちになったことはなかった。もっとも、参考図書が必要な訳でもなければ冷房の恩恵に預かれる夏場とも違うので、子どもたちが図書館で勉強することにどのような利点があるのか疑問ではある。ほとんどが友達連れだったので、半ば遊びの一環なのだろう(当人にそんなことを言ったら機嫌を損ねるだろうが)。

 いずれにせよ結構なことである。勉強する、という行為自体に楽しみや工夫を見出そうというアクションは歓迎すべきだ。勉強を生活にコミットさせる習慣は一定の年齢を越えると身につかない。私もいまになって苦労している。少年たちよ、大いに学び給え、というような感慨を抱くようではいよいよ精神がジジイになってきた。

 

 図書館が私語厳禁なのは周知の事実であるが、かと言って言葉を発した瞬間に首輪が爆発して死んだりするわけではない。ちょっとした意思疎通や確認、嘆息など細やかな会話は発生するし、最低限の応対は容認されるべきだろう。小さなお子さんが歓声を上げたり、声をひそめるという繊細な行動が不可能になった高齢者がときどき大きな音を立てることに対して寛容になるのは難しくない。

 しかし冒頭で触れたような子供たちのひそひそ声は、実際の音量以上に耳障りに感じられる。今日、思い知った。

 

 彼ら(彼女ら)も「図書館では静かにすべし」という常識の存在は十分に知っていると思われるし、それに留意している。ほとんどの学生は眠ったり電話を鳴らしたりするような中高年に比べると良識的である。ただ、彼ら(彼女ら)のほとんどは兄弟か友人と一緒に来ているため、しょっちゅう会話をする。これが存外、耳障りなのだ。

 子供たちは声をひそめて喋るのが得意なように感じられる。身体がまだ小さいし、聴覚をはじめとするセンサーも鋭敏だ。大人の世界や別の友人グループとの摩擦を主な厄介ごととするため、小さな声でひそひそと内緒話をする機会は多いのだろう。私はあまり得意ではなかったが、そういうのが得意というか、そうしたコミュニケーションを主流とする人たちがいたのは覚えている。

 

 そのひそひそ声が、すごいムカつく。すんげえムカつく。

 音自体は非常に小さい。新聞を捲るガサガサという音や、いまの時期だと花粉症なのか鼻をすする音や口呼吸の呼吸音のほうが音としては大きいはずだ。しかし、デシベル的には大したことはないはずのヒソヒソ話が(私の場合は)かなり強いストレスになる。

 おそらく、反射的に耳が聴こうとしてしまうのだ。そして子供たちは十分に声をひそめているので話の内容自体はまったくわからない。ひそひそという会話の気配と音がするだけだ。ただそれだけなのだが、これが読書への集中をものすごく邪魔する。きちんと聞こえないのがムカつく。気配によって読書に集中できないのがムカつく。次第に、大きな音ではないから良いだろうと長々会話を続ける手合いにもムカついてくる。ほとほと困った。

 

 私は公共の場における一番重要なマナーは〈その場には様々な人が様々な理由で居合わせているので、それを鑑みて寛容性を持ち、過度に干渉しあわないように心掛けること〉だと思っている。

 今回の場合「図書館では静かにしなくてはいけませんよ」と注意をすることは簡単だった(大人としてはそうするべきだったかもしれない)。ただ、彼女ら(女の子だった)は騒音の程度としては極めて静かだった。さらに書架の並ぶあたりで喋っていたので、たまたまその声がよく聞こえる閲覧席に座っていた私以外に迷惑した利用者はいなかっただろうと思う。上記のマナーに照らし合わせるなら、私が席を移るべきなのだ。

 そう思いながらも3分、5分とひそひそ話が続くうちに読書への集中力が完全に途切れた。幸い読みたい部分は目を通した後だったので、諦めて荷物を纏めると少し早めに帰路についた。

 

 仮に注意できたとしても、おそらく私は読書に集中できなかっただろうと思う。そんな些細なことで注意するなんて正当性はどこまであったんだろう、とか上に書いてきたようなことを悶々と考えるばかりで読書どころではなくなっていたはずだ。身体的なストレスが精神的なものに置き換わった時点で、すでに私は詰んでいた。

 私は気持ちの切り替えが下手で、怒られれば竦むし、失敗すれば気に病む。いまでもむかしやらかした大きな失敗や後悔を突然思い出して、思考や行動が一瞬止まるようなことがままある(そのときには変な言葉が口を突いて出る。恥ずかしい)。この性格ばかりは直せないので、リスクの高そうなことには入念に準備して臨む。慎重であることは悪いことばかりでもない。

 マズイと思ったときやくよくよとした状態を自覚したときには、すでに取り返しのつかないことを棚上げにして、まだ取り返しのつくこと、リカバリー可能なことにのみ焦点を絞ることが重要だという。実際にそうした訓練もあるらしい。ジャンボジェット機の操縦士などは本当に自分の技量が必要になるときはほぼ緊急事態の場合であるため、パニック状態やイマージェンシーのプレッシャーからどう行動するかを繰り返し訓練するそうだ。

 そこまでしたいとは思わないが、体裁を整えられる程度には日常生活でも職務でも遂行できるようなタフさが欲しいと感じた出来事だった。誰かが言っていたが、鈍感であることや無関心であることは、情報社会における強さである。