でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

読書感想:『いま世界の哲学者が考えていること』岡本裕一朗

 以前から哲学については興味を持っていたのだが、それに対して暗記科目以上のアプローチができるようになったのはごく最近のことだ。高校倫理でソクラテスから始まる一通りの流れは学習しているはずなのだが、代表的な哲学者の名前と思想の表題に触れる程度で、それが社会的にどのような影響を与えたのか、あるいは具体的にどういった思想であるのかは追求が浅かったように思う。実際は授業でやっていたのに私が忘れてしまっただけかもしれないが(ありうる)、いずれにせよ哲学に対する取っ掛かりを見失ったまま年月が過ぎ去っていった。

 一念発起して「では易しそうな哲学の本でも読んでみるか」と入門用の大して厚くない、有名な哲学者の名を冠した冊子を手にとって紹介文を数行読んでみると、いきなり壁にぶち当たる。たとえばキルケゴールの場合、

 ーーヘーゲルに代表される理性中心主義を批判し、自己の主体的なあり方を追求した。二十世紀の実存主義の先駆であり、ハイデガーに多大な影響を与えたーー

 というような要約が見られる。なるほどキルケゴールについての本を読むには、まずヘーゲルの理性中心主義とやらの概要を掴む必要がありそうだと、近くにあったヘーゲルの書を取ると、

 ーーカント哲学との対決から出発したヘーゲルは、ギリシア哲学や新プラトン主義、スピノザなどを視野におさめながら弁証法を武器に巨大な哲学の体系を作ったーー

 とくる。もうヤバイ。じゃあカントも読まなきゃじゃん。そもそもギリシア哲学とか新プラトン主義とか19世紀から一気に古代哲学まで遡っちゃったじゃん。スピノザとかいう人名なのか思想なのかわかんねえ単語まで出てきちゃったじゃん。これもう全部勉強しなきゃダメじゃん。そこまでの情熱はないじゃん。

 というわけで哲学を一口齧ることすらできず、匂いを嗅いだだけでノックアウトされて遁走することになる。同じ思いをした人は多いのではなかろうか。どこからつつけばいいのかわからない、というのは趣味として扱うにはいささか具合が悪いのだ。

 

 そこで表題の本である。現在、世界で哲学者と呼ばれる人々が〈いま〉という時制をどう捉えているのか。IT、バイオ、経済、宗教、環境保護などの観点からその思想と潮流に触れていく。

 正直な話、本編はさほど面白い内容ではない。有名な著作や学説、思想や事件が扱われるが目新しい発見があるわけではなく、既存の意見や思想の出どころやそれを補間する説を紹介することに終始している印象だ。タイトルからして哲学の初心者向けに上梓されたものと想像されるが、紹介止まりで終わるトピックが多く、逆に少し踏み込んで学説を戦わせる内容になると説明不足なところがあり理解が難しい。簡単な解説や注釈がついてはいるものの、冒頭の体験談に上げたように自分でその内容を調べないと説明や解説の意味も汲めないことはしばしばだ。

 それでもこの本が哲学を学ぶ上での足掛かりとなるのは、序章と第1章の存在が大きい。まず序章において「そもそも哲学とはなにか」をしっかりと規定する。個人的に、昨今の哲学、あるいは哲学的というイメージ先行の比喩表現にはかなり辟易していたところがあった。単なる思想や言葉遊びが哲学の傘下に入ることを許さず、哲学として扱うものの意味と方向性を鮮明にしているため、今後の学習の指針にもなる。ちなみにこの「哲学」の枠と意味については中島義道の『哲学の教科書』が詳しい。私はこの本を哲学入門の体系書だと思って購入したので面食らったが、役にはたった。

 そして第1章では20世紀以降、哲学の世界にどのような流行り廃りや潮流があったのかが纏められている。ここまでを読むだけでも、思想のメカニズムとそれに対するアプローチ、そうした哲学が生まれることになった歴史的経緯のきっかけを掴むことができる。あとは興味の湧いた分野には読者各々が理解の深度を深めていけばよく、そうした指針ができたのは有り難かった。この本を読むことで新しい知識や教養を得ることは少し難しいかもしれないが、ガイドブックとしては十分に有益だろう。

 

 とはいえやはり本書の注釈や解説だけでは理解が追いつかない部分が多く、19世紀以前の歴史的変遷に関しては説明不足と感じる箇所もあった。哲学史の解説書である貫成人『図説・標準 哲学史』を参考にしながら読み進めたが、それでも十分に消化できたという気はしない。ここまで書いてきてアレだが「これから哲学書をなにか読んでみたいな」という人にはお勧めしない。そうした本があるなら、むしろ私が知りたいし探しているので教えてください。

 そういえば、哲学書といえばニーチェが一番有名というか読まれているように感じるのは、彼は思想だけでなく人生自体が物語になってしまっているため読みやすいという側面があるかもしれない。誰それの思想の流れを組んだとか、それを批判したとかが根底にあるわけではなく、自己の経験や体験を元に思想を展開していくので最初の一齧りまでのハードルが低いように思う。哲学の気配を理解するにはニーチェから読めばよろしかろう、というのは多くの人の体験に基づいた理論だったかもしれないと、今更ながら思っている。大学時代の斜に構えていた自分に教えてやりたいものだ。