でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

箸休めと近況

 今日は読了した本がないので感想文が書けない。フィクションであれば長くても3時間集中できる時間ができれば(無職の私にはその時間の確保は難しいことではない)読み切ることができるが、学術書や評論の類になるとそうはいかない。一通り目を通すだけなら同じような時間でできるだろうが、それでは理解がまったく追いつかない。学術や評論の場合、中身をある程度手応えが感じられるレベルで吟味できないことには、せっかく読み終えても手元に残る実践的な知識が得られない。大学以前の生意気な読書から体験としてそれは痛感した。

 私が本を読むのは楽しいからであり、せっかくならきちんと、王道を通って、丁寧に楽しみたいと思っている。フィクションは基本的に通読によって物語の筋道が読者の中に根付くので、流し読みのようなやり方でもそれなりに心の落ち着きどころというか、手のひらに残る感触自体はきちんとしたものがある。その感触が気になるようなら改めて精読すれば良いし、こんなもんかと思ったなら、こんなもんかで済ませてもよい。一方で内容の理解が求められる本の場合、流し読みはできない。そういう本は難解な迷路を、著者の一歩後ろをついて歩いているようなものであり、迷路自体の成り立ちや攻略法をきちんと学び取り、半ば著者と意識を共有しなければ本質的な内容と面白さを見逃してしまう。それではあまりにもったいない。というわけで、読んでいて勉強不足を感じる本は別の書籍やウェブサイトで知識を補強したり、ある程度理解できるまで何遍も同じところを読み返したりする。結果、読了までの時間が長くなるのだ。

 ちなみに現在読んでいるのは、宇野常寛『リトル・ピープルの時代』である。先日読了した『母性のディストピア』が独特な視点と精密な理論が親しみやすい題材を元に次々と展開されてとても興味深く読めたので、その前身となる作品も買ってみた次第だ。もっとも読み始めたのは3週間ほど前で、『母性〜』のほうもかなりの文量と密度だったのだが『リトル・ピープル〜』も文庫本とはいえ負けず劣らず厚いうえに読み応えがある。さらには要所要所で村上春樹の作品が引き合いに出されるので、春樹フリークとしてはもう一度題材に触れてから論評を読みたいという気になってしまう。それで実際に脱線して村上春樹の再読を挟んだりしているので、こちらの読書は遅々として進んでいない。まあ、それでも読み進めてはいるのでいずれ感想は書きたい。評論の感想となると適当なことは書けないので、いまから緊張している。

 

 以上 。読書感想お休みの言い訳。それで千字書けるのだからなかなか口が上手くなったものだ。

 

 蛇足ついでに少し。

 私はご覧の通り本を読むことも趣味なのだが、人生において一番時間を消費してきた趣味はTVゲームになる。これは現在でも変わっておらず、無理矢理にでも本を読むぞという決心さえなければ一日中モンハンをやっていただろう(やっていた)。もっとも読書縛りと運動縛りがあっても3、4時間は遊んでいるので、十分遊び倒しているレベルだ。一緒にMHWができる方はコメント欄やTwitterで連絡ください。狩猟笛しか使えませんがソロでストーリークリアする程度の腕はあります。タイミング合えばご一緒しましょう。

 昨年実家に戻って、落ち着いてすぐにPS4とペルソナ5を買った。それから弟の勧めでダークソウル3を買って200時間ほど遊び倒し(途中ドラクエ11が出たがこちらは途中で飽きた)、秋口からは就活やらなにやらでPS4の電源を落としたままの日々が続いた。その頃からは疎遠になっていたスマホゲー(デレステ)に手を出したところ思いの外ウマが合い、いまだに毎日遊んでいる。ガチャにもそれなりに資金を投入している。早く働きたい。今年になって、なにかの拍子に再びダークソウル3をやるようになり、新キャラを作って100時間ほど遊んだところでモンハンが発売され、以来そちらにシフトした。そんなゲーム歴の1年だった。

 根っからのゲーマー気質はだいぶ落ち着いてしまったが、それでも一度ハマると寝食を忘れて没頭するのはゲームだけである。私が危惧しているのは、一ヶ月後に社会人になってからもちゃんと読書を趣味にしていられるだろうかという不安だ。最近読んでいる本はまずまず楽しく読めている。あの著者と雰囲気が似ているとか、既存の作品との共通点を指摘するような真似もできるようになってきた。自分に新しい視座が加わっている実感はあるし、有意義な本の多さに感慨深い気持ちになることもしょっちゅうだ。

 それでも、忙しくなったら私はゲームを優先的にやると思うのだ。ひたすら効率的に敵を倒す手段を見つけたり、一方でマルチプレイの相手をサポートすることで貢献欲求を満たしたり、パラメーターの数値を地道に底上げするレベル上げに精を出したり、ピーキーな性能で万能型を潰す快楽を味わうほうに、たぶん傾く。

 それは何故なのだろう。最近の私のゲーム熱は極めて一過性のもので、毎日数時間遊んでいたソフトに、ある日を境にまったく触らなくなったりする。現に秋頃はPS4は丸二ヶ月以上眠っていた。そうなれば上記のような閉じた世界でしか通用しないテクニックは文字通り水泡に帰する。一方で本を読んで得た感動や知識は、次の日から突然役に立つというものでもないが、そこまで徹底的に無駄にもならない。こうして自分が書く文章のどこかで表現を真似したり、別の知識に触れるときに理解を円滑にするバックボーンとして役立つ。そう、役立つのだ。

 ゲームは基本的に娯楽としてひたすらに消費される。もちろんストーリーが壮大なものや感動的なものはたくさんあるが、時間効率と全体的な質で言えば効率は極めて悪い。ダークソウル3は確かに世界観やストーリーも面白いが、数百時間あれば本ならそれこそ百冊読めるのだ。

 読書はもちろん楽しいが、ゲームはそれ以上に、本質的に楽しいのだ。快楽といってもいい。いい大人になっても、その根源的なところが変化する様子はない。私はできることならゲームよりも読書が好きでいたいなあと思っているのだが、その願いは私の身体の芯が否定する。その否定をなんとかなだめすかしたい。書くことが読書の次くらいに好きになれたら一番いいのだが、どうもそのハードルは高そうだ。正直、この文章もここまで書いてずいぶん嫌になってきている。なに言ってるんだ私は。

 消してしまうのも忍びないので、これを今日の更新分とする。ここまで考えたり止まったり消したりで、だいたい一時間。気持ちの整理にはなったのでよしとしよう。もっと書いているうちに発見したことを素直に書けたらいいのだが、序文との整合性などが気になって削ぎ落としてしまうので、次回はその辺を意識して書いてみようか。