でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

「なし水」感想 part1 全体&こだまさん

長文を書く必要ができたのでブログを久々に更新。

何回かにわけて、つらつらと「なし水」の感想を書く。

まずは全体を通しての簡潔な感想から。

とても面白く、興味深く著者4人の短編を読み終えることができた。着眼点も文章力も職業作家に比べて何ら遜色は無い上に、文章やユーモアのセンスから著者の人柄や生き方が窺える。のりしろさんの「西を東のイーストウッド」以外は著者本人の半生にまつわるノンフィクションであるので、そういう感想を抱くのはごく自然なことかもしれない。

しかし同時に「こんなとんでもない体験をしながらよく普通の生活が営めるものだ」と感心せずにはいられなかった。著者の半生は、少なくともこの短編で描かれたものから察するに常識的なラインからかなり外れている。猟奇殺人事件の犯人たちが書いた短編だ、と言っても信じる人が出るのではないかというくらい強烈で、むしろ事件を起こすべき人たちの模範的生き様に見える。

「家族」というメインテーマを持ちながら(意図して設けたテーマではないらしいが)、短編を連ねる4人の作品には一般的に歓迎されるような暖かい家族像がない。むしろ家族という言葉のマイナス面、呪縛的であるとか運命的であるとか退屈であるとか直接的に下品であるとか、そういう息苦しさを感じるような要素に対して果敢に大胆に、ユーモアを持って「嘘だろ」というあけすけさで書き綴っている。

そして、どう考えても素晴らしくなんかないし輝いてなんかいないような描写に、読者はとんでもなく感動することになる。マクベスの有名な一説「きれいはきたない きたないはきれい」をすんなりと理解させてくれる。

ここで綴られた物語は間違いなく「命」の輝きを持ち、「生きる」素晴らしさを語っている。著者にそういう意図は、たぶん無いにしても、だ。

書いているうちにさらに分量が増したのでパート分けする。第1回はこだまさんの作品への感想。

著者の作品は短い短編3作と、やや長めの短編1作から成る。

ここでは一番長い短編「夫のちんぽが入らない」の感想を書く。

それにしても酷いタイトルである。

が、このタイトルが示す事実が重要であり、物語のキーワードでもある。

「性」というのは人間的なドラマを位置づける上で極めて重要なファクターである。人間性というのは即ち動物性の逆を行くものであり、それは本能を理性によって抑制し理論的・秩序的行動を基にすることに繋がる。それが文明の礎を築くものであり、安定した社会像の構築によって将来展望という概念が産まれることで進化の新しい道筋が形成された。

動物は一個体かあるいはその子孫という短い世代間での予測しか行わないが、人間は社会制度の導入により初めて長いスパンでの将来予測(将来起こる物事の重要性を認識)を可能とした。これは長久的安定のために一世代間程度の犠牲を承服するという進化の道筋でも異質な形質であり、また特質的な要因でもある。

これら複雑化した性のもたらす振幅は、人間的なドラマを語る上で欠かせない「愛」の基盤でありながら、一方で子孫を残すという極めて原始的な動物的本懐を根源としている。言わば知性と本能の二律背反のせめぎ合いの中心に存在しており、それは知性が勝ろうとも、本能が勝ろうとも、いずれかに動物的・人間的挫折や敗北が少なからず存在し常に葛藤している。

この非常に曖昧で定義や輪郭の形成すら難しい「性」と「愛」、それに関わる「生」そのものに対して、ひとつの命が真摯に向き合った結果がこの「夫のちんぽが入らない」という物語に繋がっている。

我ながら長すぎる上に的外れな前口上だと思うが、これが感想のだいたい半分でもある。スケールがでかくなりすぎた。しかし、そのくらいのことを考えさせるだけの力がこの短編にはあった。以下、少し本編の内容に触れながら書く。

この作品は著者の半生を振り返った自伝でもある。社会生活を営む上での公的・私的な辛酸苦難がユーモアで多少中和されながらも、しかし確かな痛みと辛さを持って読者に突き刺さってくる。

以前からこだまさんには、ずいぶんと老成したというか達観したというか、物事を俯瞰から眺めた「人生早くも隠居」感みたいなものを感じていたが、これだけの修羅場を潜ってきたとあれば合点がいく。

これがフィクションであれば、その苦難や挫折をきっと乗り越えてしまう。それはそれで心に響くストーリーになったのであろうが、この短編では歪められた姿そのものが、その歪み方と歪ませたものの詳細を事実に基づいて書き記すことで黒々とした質感を持って読者の心に迫る。

駄目になってしまい、損なってしまい、取り返しがつかなくなってしまった命や人生がそこには残酷に存在するのである。それは巡り合わせの悪さであったり、親切心の欠如であったり、無理解の蓄積であったりするのだが、著者はそれを客観として享受している。

最初にだらだら書いたが「性」のドラマは人間的な部分と動物的な部分が混在して生まれる。

しかしこだまさんの書いたこの「性」の物語からは、動物的な要素がパーフェクトに削がれている。論理的に記載され制御された「性」だけが存在している(ように見える)。

そこに「夫婦」と「家族」という性を切り離せない要素が加わることで、男女の在り方、引いては生き方に至る新しい価値観を読者に感じさせる。性差を無視した、本質的な「愛」の存在を文章の端々に見出すことができる。

最後になるが、私は面白いと思った本の特に感情に訴えてきたシーンが自然と一枚絵になって記憶される。この短編を読んで、脳裏に生涯忘れないであろう絵が浮かび上がった。

茜色の斜陽が差す校庭のグラウンド。揺れるブランコと大きな陰と小さな陰。立ち尽くす女教師とその足下からひたすら大きく、校舎に被さるように大きく大きく伸びる影。

まるでその場面を見たかのように、その絵は質感を持って私に訴える。その夕日は命の輝きであり、そこに落ちる影は命が振るう暴力によって生まれる闇である。