でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

「なし水」感想 part4 のりしろさん

のりしろさんの作品への感想を書くというのは、それ自体が一種の挑戦だと個人的に気負っている。それはのりしろさんの創作と、何より彼が書く諸々に対する感想文を読んでいただければ納得していただけると思う。

彼は物語の作者としてももちろんヤバいが、読者として作品を吸収・分解・再構築する管理能力に関しては輪をかけてヤバい。私は少しでもそういうところへ近づきたくて、同じ脳味噌の使い方をしてみたくて、焼け石に水かもしれないがこうして感想を書いている。

先に感想を書いた3人は強烈な個性の持ち主だった。生き方がドラマになるだけの経験と感性がある。それは本人にとってはキツいことでもあるだろうし、その生命活動そのものに尊敬の念を抱かずにはいられない。

一方でのりしろさんは3人ほどには強烈な個性を持ってはいない。一人で夜な夜な投球練習を続けてスライダーを習得し、ある日投手として草野球チームに加わってみるとか、個人的に強烈だと思うエピソードはいっぱいあるけれど、それはまた少し違う気がする。

では「なし水四天王」とでもいうべき作者4人の中では彼が最弱かと言ったらとんでもない。むしろ一番の規格外はのりしろさんだ。

のりしろさんは街をひとつ飼っている。個ではない。

ストーリーを内包した街を抱え、管理している。そんな印象を持っている。

のりしろさんの「西を東のイーストウッド」。

新しい物語を読み始めるときというのは、何もない空白、あるいは真っ暗な暗闇にぽつんと読者の視点が置かれるところから始まる。物語が進むに従って靄や霞が晴れていくように、または松明の灯りが広がって行くように少しずつ全景が明らかになってくる。世界の広がりが明確になると、物語の中心に視点は再びズームインされ、読者は主人公と一緒に物語を追従していく。

のりしろさんの作風は、主人公と一緒になって物語を歩み終えた後、ふと視点を外へ移してみたときに、最初に確認したはずの全景がまるで違って見えてくるところがたまらなく面白い。

少し前にテレビで流行った「アハ体験」とか言う現象に似ているかもしれない。画像の何処かが少しずつ変わっているのだが、注視していないとその変化には気付かない。のりしろさんの場合は、気がつくと世界が一変しているときもある。脳味噌もアハアハ言うわ、というレベルでひっくり返る。

「西を東のイーストウッド」は狭い場所からすーっと時間を掛けて別の狭い場所へ移動していく物語だ。上で言った世界の広がりはそれほどでもないかもしれない。

それでも親子の会話から「家族」の世界が構築され、道中と焼肉店でのやりとりから各個のキャラクターが構成されていき、最期の台詞を終えてふと物語から俯瞰に戻ったときに、やはりそこには最初とは見え方の違う世界が広がっているように感じる。

気まぐれそうな姉と、幼さの残る弟と、マイペースで放任主義そうな父親と、逆によく喋る賑やかな母親と。否定や冗談(嘘)を中心とした会話が繰り返されながら、それでいて家族の仲の良さ、愛情の在り方、結束の固さがじわじわと読者に伝わってくる。

この「じわじわ良さとして浸透させる」技術が、のりしろさんが研鑽を積んできた文章力の凄いところで、客観的に見てみるとこの家族は別にハートフルなことはしていない。いわゆる心の成長やら希望ある未来の話などはないのだ。ラストの家族の唯一無二の結束を感じるようなシーンですら、彼らは「終末」についての話をしている。

愚痴であったり意見の衝突であったりという肯定を抜きにしながら、この家族は幸せそうに見える。同時に長女が抱える、わりとはっきりした孤独もまた確かに感じられる。繋がってはいるし、愛されてはいるものの、そこには個人という閉じた世界があり、少し大きな家族というまた別の閉じた世界が存在する。

家族はどこまでも閉じた世界でありながら、同時に普遍性を持って語りかけてくるワードなのだ。

こだまさん、爪切男さん、たかさん、みんな家族の話だった。そしてそれは閉じた世界の作品でもあった。目頭が熱くなるような素敵な出来事も、胸に迫る痛々しい出来事も、それは万人が体験できる普遍性を持って存在するわけではない。3人が描いた物語は家族という振幅の中でもかなり極端なところが舞台となっている。事件として存在するイレギュラーな家族像と言っていいかもしれない。

一方でのりしろさんが書いたのは「焼肉店で食事をする家族」という日常的でありふれた物語である。しかしそのありふれた家族のやり取りが、先の3人が書いたエネルギッシュな家族像とはシンクロしないかと言ったらそんなことはない。ここにだって根源的なネガティブさや、ベクトルが暗闇に向かっている危険なポジティブさがちらちらと影を覗かせている。

この物語は創作だからこそ、読者それぞれの想像力でもって自分の気持ちが落ち着き易い風景に、ある程度形を整えながら着地する自由性がある。

通して読んでみると「西を東のイーストウッド」はここまで連なった物語の中心を補完する形で存在しているように感じられる。このお噺は『なし水』の最後を飾る物語として相応しかったと思う。一冊の本を纏めあげ、ここまで本を読んできた読者を現実へ返すのに良い幕引きをしている。アクの強い個性的な3作を、この作品が上手く繋いで一冊の本としての手応えを残しているように感じられた。

家族が最後に「地球最後の日は焼き肉を食べる」と団結(?)する場面。そしてすべての物語を読み終えて本を閉じると、賛否両論ある裏表紙が見える。

この裏表紙、セクシーなポーズで寝そべるお姉ちゃんの後ろに迫っているのは津波だ。言わば「地球最後の日」はここで実は読者に向かってやってきている。

ああ。と思う。

やられた。と思う。

ここまで書くのに『なし水』は何度も読み直した。感想が変わることもあり、少しずつ感想文をいじくり、何か変な文章になってしまうところも随分あった。推敲を重ねたが、いま読み返しても下手糞で「イーッ!!」となってしまう部分はある。そしてここまで書いてきて、大前提としてきた感想が揺らぎ始めている。

『なし水』は家族をテーマとした作品である以前に、もっと一生懸命な「日常」をテーマとした物語であったのではないだろうか。もっともっと我々の生活に踏み込んでくるお噺ではないだろうか、と。

またひとつ新しい視点を加えて、50ページの冊子はより魅力的に私を迎え入れる。