でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

生と死のぐるぐる

もう15年くらい前になる。長く寝たきり生活をしていた曽祖母が家で息を引き取った。完全無欠の老衰だった。この文章を打っているMacBookの乗った机のある場所がまさに、曽祖母の亡くなったベッドがあったところだ。いまはその八畳間が私の部屋になっている。煤けた襖もざらざらしたクリーム色の壁もあの時と変わっていない。むしろ幾分汚くなったのだろう。

亡くなる数日前からそういうことになるというのはわかりきっていたので、その晩は近しい親族が集まっていた。親戚縁者に囲まれる中で細々と虫のような呼吸をしていた曽祖母は、突然ふぅーっと大きく長い息を吐いて生涯を閉じた。人間やはり最期は息を吐いて終わるのだな、と臨終の際に間抜けな感想を抱いたのを恥ずかしく感じたのを覚えている。

その後、事務的なやりとりが始まると、私たち兄弟は忙しくしている大人たちを邪魔しないようにと部屋に引きこもってテレビを見ることにした。同じ屋根の下で暮らしていた家族の死というパンチのある出来事があった夜だったので、私も弟も口数は少なかった。何気なくチャンネルを回しているとお笑い番組をやっていたので、それを見ることにした。お笑い番組を見るようなTPOではなかったが、日常的な賑やかさを感じたかっただろうか弟も別の番組にしようとは言わなかった。単にBGMが欲しかっただけかもしれない。

見るとはなしにぼんやり眺めているうちに漫才だかコントが終わり、次の芸人が出てくるのを繰り返した。それが何度か続くうち、中川家の漫才が始まった。独特のテンポと台詞回しが好きなコンビだった。中央のマイクの前に濃淡で色合いの違うスーツ姿の二人が立つ。そして、中川家は葬式を題材にした漫才を始めた。

ああ、こういうことってあるんだなあ。

私は平べったい無感動の中で、そういう偶然があることに感動した。不謹慎だとか笑いはこうして人を傷つけるのだとかはまったく思わなかった。単純に、たまたまこういう巡り合わせが自分に訪れたことに対して、なんらかの意図を感じずにはいられなかった。漫才のことは全然頭に入らなかったけれど、家族が死んだ晩に、テレビから葬式を茶化した漫才が流れていて、世間の少なからぬ人々がこれを見て楽しんでいるのだなあ、と思うと世界は大きかった。人間はとてもちっぽけだった。世界がどこまでも収縮していくような、拡大していくような、存在と意識の誤謬みたいなものがぎゅんぎゅん広がっていて、いつもはその渦に乗っているのに、その晩だけはそこから取り残されたせいで、そういう動きが偶然に観測できるような不思議な感じがした。北極星を中心に星空が円を描いているような一枚絵を私はなんとなく想像した。

弟に、笑えないなあ、さすがに、と私は言った。

弟は、いやあ、でも面白いと思うよ、と真顔で返した。

あのときから随分時間が経ったし薄っぺらいなりに人生経験は積んできたと思うのだが、曽祖母が最後に吐いた大きな呼吸の音と中川家の漫才がぐるぐるとしている姿を超える死のイメージが私の中には構築されていない。