でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

文学フリマ『僕の休日は誰かの平日』の感想

今年は現地まで足を運ぶことは叶わなかったが、親切な友人が欲しいものがあれば購入して送ってくれるというので2冊だけ依頼した。昨年と一昨年は仕事の合間を見て東京まで出掛けたのだが、実家で暇を持て余す身である今年になって遊びに行けないというのももどかしい。よく言われることだが、仕事をしていれば時間の余裕がなく、仕事がなければ金銭的な余裕がなくなる。重ね重ねもどかしい。まあ私の場合は前回の記事に書いたように私用による影響が大きかったのだが、実際お金はそんなにない。なくなってきた。返す返すもどかしい。

送ってもらったのは、伊藤佑弥さんの『僕の休日は誰かの平日』と、イチ・ニイ・イチの『自分探しの旅は短パンで』の2冊。どちらも面白く読ませていただいたので、簡単ではあるが以下に感想を記したい。

 

まずは『僕の休日は誰かの平日』。

Twitterでコンセプトを見掛けたときから目を引かれた。ある一日、ある平日について様々な人からの寄稿を纏めた本。著者自身にとってひとつの記念日となる日は、他人にとってどんな一日だったのか。自分が〈平日〉として生きた一日も誰かにとってはなにかの記念日であったかもしれない、いや絶対にそうだったはずなのだと想像を膨らませずにはいられない一冊である。そうした客観性や俯瞰自体も面白いが、私がこの本に惹かれた最大の理由はテーマである8月8日が私の誕生日だったからだ。私にとっては生きていく限り、この一日は特別な日である。それが誰かと重なり、こうした動きとなって観察できるということ自体が象徴的に感じられた。

ある一日の記憶を具体的にどこへ行きなにをしたということを時系列に記録している人、ひとつの出来事について心情を滔々と語っている人、繰り返される平日から〈一日〉という枠が溶けてしまったような印象を受ける人もいた。正直な話、書かれている内容はそこまで興味深いというものではない。特殊な事件が起きるわけでもないし、目新しい発見や機知、示唆に富んでいるというのでもない。夏の暑さ、接近していた台風の強い風、テレビに映る高校野球……いくつか共通して見える風景も退屈で代わり映えはしない。しかしそこには様々な人がいろいろなエネルギーを消費して、その一日を生きている。その事実や考え方の羅列が、ある一日という容れ物のなかで渦を巻くようで面白い。

読み終えて今更ながら気が付いたことは、それが連続する毎日の一地点に過ぎないということだ。すべての文章からは語られていない昨日と、待ち受けている明日の気配が色濃く感じられる。綺麗にすっぱりと切り取られた一日を書いたものであるにも関わらず、そこから感じられるのは確かな連続性だった。普段の小説で一話完結するような一日を見慣れている身には新鮮な、あまりになんでもなさすぎる一日の記録。実際に生きる人々が書いたものであるはずなのにむしろリアリティを欠くような、生活臭の薄いような、不思議な感覚を味わった。そして同時に、私は冒頭で8月8日を特別な日とのたまっておきながら、それについて書き記せるほどの記憶を持ち合わせていないことに気付いてしまう。それは最早、自分にとってすらリアルなものとして存在していないのだ。

薄れるなかに、忘れ去られるなかに、確かに連続性のひとつとして存在した一日。それに形が与えられていることが奇跡のように思われた。

 

以上。大変面白く読ませていただきました。思ったより長くなってしまったので『自分探しの旅は短パンで』の感想は後日。

今更だがやはり行けばよかった。面白いものを読みたいというより、書きたくて書いちゃった人たちのエネルギーを浴びに行く場所であり、その集大成である文フリとその出版物は、とても刺激的である。