でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

『麒麟がくる』に失望した話

 久々にブログで「記事作成」をクリックした。やっほー、いわしだよ。

 いま私の心は千々に乱れている。
 というのも、先ほど最終回を視聴した『麒麟がくる』のラストがあまりにもダメダメだったからだ。久々に、本当に心の底からがっかりしている。10年くらい前、最後に付き合っていた相手からフラれたとき以来のがっかりだと思う。歴史的がっかりである。いや、マジでがっかりした。
 これからメタメタにこき下ろすので先に申し添えておくが、ここ最近ではぶっちぎりで面白い大河ドラマだったと思う。脚本、役者、映像、遊び心、いずれも最高点に近い満足度だった(殺陣のスピード感はイマイチだったが、最近満足な殺陣を見ていないのでまあ及第点か)。私も最終回までは、というかラストの10分前までは熱中しながら視聴していた。今日までの丸1年以上、毎週日曜日の夕刻を楽しみにしていたし毎回その期待を裏切らなかった。まさに今日、最後の最後を迎えるまでは。
 ちょっとその辺りの心情を整理しようと思い、文章をしたためる次第である。

 さて、大河ドラマ麒麟がくる』。
 今作はそもそも設定がいい。戦国時代の動乱期、主人公はこれまで脇役としては見せ場に事欠かなかった明智光秀(十兵衛)。彼はどのようにして織田家家臣の筆頭となり、最後になぜ無謀な裏切りに走らなければならなかったのか。歴史上の知名度と物語の重要性において、極めて謎の多い人物である。

  単刀直入に言えば、視聴者が見たかったのは「明智光秀という戦国武将の決着」であった。

 しかし、この男を主役として語るうえで絶対に避けられないこの命題から、最後の最後にこのドラマは逃げてしまった。台無しである。お膳立てをばっちり整えてやってきたのに最後の最後にやってしまったのである。マジでどうしてしまったんだ。南雲艦隊か?

 先に述べたとおり、「本能寺の変」は日本史上最大のミステリーと称されるほど、諸説あり魅力ありの大事件である。そこにどのような視座を盛り込むのかに視聴者は注目していた。信長はなんとかなるとして、その後どうやって天下統一を果たすつもりだったのか、計画的かそれとも刹那的だったのか、あるいは黒幕がいたのか、朝廷や幕府と繋がりはあったのか、などなど、可能性を疑い出したら(妄想し始めたら、が正確か)キリがない。
 そして、残念なことに、このドラマはこのいずれもを否定した。選ぶことを諦めたのである。明智光秀を教科書どおりに、本能寺の変を起こし、その後すぐに討たれたもの以上の物語を与えることを拒否してしまった。とんでもない肩透かしである。

 これまでの物語において、十兵衛は立派な志と実力はあるものの、常に誰かの後ろか横に控える存在として描かれてきた。
 斎藤道三の配下として諸国を回る青年期、越前で浪人暮らしをしながらも公方様に評価され、京で地位を得ていく壮年期、織田家の家臣として名声を高めていく晩年期。いずれも十兵衛には「立てるべき誰か」がいて「その人を導くべき正しい道筋」があった。天下統一と下剋上が常にある世界において、十兵衛は「自分が矢面に立たなくても、然るべき誰かがそこに納まるであろう」という大局を持ち続け、それを成し遂げるであろう「あるじ」に封じる執事的な側面が非常に強く描かれていた。

 それが一気に覆されるのが本能寺の変、今日の最終回だった。
 常に誰かを立てるナンバー2として背を押す存在であった十兵衛が、いざ先頭に立ったとき、そこにどのような理想を掲げるのか。そして、日本史で明らかなように、その理想がどうしてこんなにも脆く、瞬時に崩れ去ることになってしまったのか。
 それこそが、日本史を履修した数多の学生に少しばかりの傷跡を残していったミステリーであり、『麒麟がくる』はその傷跡に徐々に徐々に迫っていく物語である……はずだった。蓋を開けてみれば、そこはまったくもぬけの空だったのである。
 否、空っぽならまだいい。そこには決着から逃げおおせただけの、なにもせずに生きているであろう明智光秀の姿があった。私は、ああ、これは見事な裏切りだ、と感じてしまった。

 本能寺の変で「織田信長の合わせ鏡としての明智光秀」という決着しか付けられなかったことは大いに不満であるし、もっと言えば怠慢であったと思う。そういうのは、主人公が織田信長大河ドラマでやればいいのであって、本作でやるべきことではない
 本能寺で信長を討ち滅ぼした後に明智がどうなったかは教科書のとおりである。しかし、明智光秀という男の人生は、三日天下と呼ばれながらも、秀吉との山崎の戦いを経て落武者狩りで命を絶たれるまで続いたのであり、それまでには様々な深謀遠慮があったはずである。そして、明智光秀が主人公であるならば、それを描かねばならなかったのではないか。むしろ、明智光秀が主人公だからこそ、それを絶対に描かなければならなかったのである。

 今作は、本能寺の変織田信長が死んだことで幕を閉じてしまった。「麒麟がくる世を作ってみせる」と十兵衛は啖呵を切るが、その後はナレーションで終わってしまう。
 肝心なのは、初めて天下統一の矢面に立った明智光秀が、なにを考え、なにを理想とし、どういう世の中を作ろうと動き、それがなにに邪魔をされて、負けてしまうことになったのか、にある。
 それが本作では一切語られない。というか、重要視されていない。果てには「光秀様は生きておられるようですよ」などと言って、それらしい武士が馬を走らせて終わってしまう。十兵衛は、戦国の世を平かにする理想を他人に任せ、自分はのこのこと生き長らえて市中見物をするような凡愚に成り果ててしまったのであろうか?
 大体、最終回の本能寺の変の描き方もおかしい。『麒麟がくる』を「あ、コレは面白い大河ですわ」と思わせたのはオープニングの功績が大きい。この炎をバックに勇壮な音楽とともに描かれる描写こそ本能寺ではなかったのか。どっこい、最終回の十兵衛は、本能寺の門の前で馬に乗っていただけである。なにもしていない。プルプルしていただけである。じゃあオープニングなんだったの。あれ。炎の中叫ぶ光秀はなんのカットだったのあれ。比叡山焼き討ち? よく考えたら本能寺の変夏至も近い頃の早朝なので、オープニングは暗すぎる気がしてきた。じゃあますますなにあれ。キャンプファイヤー? もうクシャクシャである。助けてくれ。

 明智光秀は、歴史の敗残者であるし、その事実に覆しようはない。だからこそ、その負け方や、負けた後の心持ち、なにを残して誰に託したかを、どう描くのかが見たかった。そうした、負けた者の決着を描くことから、本作は最後の最後に、決定的に逃げてしまった。それが至極残念である。がっかりである。

 これを最後に『麒麟がくる』の話はどこでもしない。Twitterにも書かないし、日常会話でも避けようと思う。炎上すらマーケティングという利になる世の中においては、話題にしないことこそが創作者への最大の復讐になるからだ。
 そして、そういう復讐を決意させる程度には、最後の10分だけで受け入れ難い作品になってしまったのである。私は『麒麟がくる』に対して、一視聴者として精一杯復讐しようと思う。

 ペットは、どんなに可愛くても死別が辛いので飼わない方がいいという意見がある。
 本作も同じで、どんなに面白くても、最後の最後がアレだったら最初から見ない方がよかったのではないか、そんな気持ちにさせる作品だった。尤も、私はもう手の中で冷たくなったそれを、完全に捨ててしまうつもりでこの文章を書いている。本当にどうしてこんなことになってしまったのだ。なぜ。

読書感想:『ヒトラー演説 熱狂の真実』高田博行

 Twitterで某アカウントが突然おすすめしていたのがツボにハマって買ってしまった本。普段は小室哲哉氏をネタにしたキチ○イなツイートばかりしているのだが、一方で時折さらりと含まれる語彙や比喩には高い知性が隠しきれていない奇妙な御仁である。なんらかの社会実験的な楽しみ方をしているのか、そこまで深く考えていない愉快犯なのか……。いずれにせよ今時珍しい、とてもTwitterらしいアカウントである。なお、たまに回ってくるリツイートでお腹いっぱいなのでフォローはしていない。

 

 さて、本書。語るも忌まわしき独裁者として有名なヒトラーを、独裁者たる存在としていまだに特徴付けている〈演説〉に焦点を当てることで、その内情を深く掘り下げた一冊である。
 ドイツ語学者である筆者が政界登場から敗戦までの25年間、150万語におよぶ演説データを分析して熱狂と煽動の要因を探るとともに、歴史資料から民衆の反応などを含めて演説がどのような効果をもたらし、同時に〈なにができなかったのか〉も明らかにしていく。

 先に触れてしまうが、本書が明らかにすることは演説の持つ影響力と大衆を煽り、動かしていく言葉が持つ恐るべきチカラ……だけではない。結果的には、その限界と様々な要素が組み合わさることがない限り発揮できない、極めて限定的な魔術であることを断定している。
 しかし、冒頭でちらと触れたように、いまだ独裁者としてのヒトラーナチスの暴虐さは、こと我が国においてはそのイメージのみが一人歩きをし、なにがそこまで恐ろしかったのか、なぜ民衆はそこまで傾倒してしまったのか、なぜその熱狂は長続きせずに敗れ去ったのか、など数々の疑問について表面的にすら理解できているとは言い難い。そして、その「イメージによる熱狂の創造」こそ、ヒトラー演説の目的であったことは本書以外でも盛んに議論されるところである。
 だとすれば、ナチスの恐ろしさがイメージによってしか捕捉できていない現状は、大戦終結から75年を経たいまも、ヒトラーが仕掛けた演説という魔術から民衆が解き放たれてはいない証左だと言えよう。昨今の「コロナウイルスを正しく恐れよう」というスローガンが繰り返される情勢もまた、我々の歴史から学ぶことのない不勉強さを強く非難しているように感じられるのは気のせいではあるまい。
 そうした疑問や立ち振る舞いについて、本書は十分な示唆と反省を与えてくれる。ここまで読んで気になった方は、ぜひ購入して目を通していただきたい。

 

 私は高校生時代に学習指導要領のスキを突いてしまった世代に当たり、世界史と日本史をまったく履修していない(地理だけは学んだ)。その後、多少独学で学んだとはいえ、現在の大学生や高校生と比べて数段落ちる教養しか持ち合わせていない自覚はあるので、歴史的な考察は避け、演説について少し私心を挟みたい。

 演説について、歴史的にもっとも早く顔を出すのは哲学者アリストテレスの『弁論術』だろう。概要だけまとめてしまえば、人を説得して動かすための弁論術(レトリック)に必要なものは、ロゴス(論理)、エトス(倫理)、パトス(情熱)の3要素であると説き、その技巧を洗練させたのがアリストテレスである。
 一方で、アリストテレスの師匠筋に当たるプラトンソクラテスは、この『弁論術』を危険視していた。弁論はいわば〈まやかし〉であってそこに真実はない、として対話(ダイアローグ)の立場を重要視するのが後者の視点だった。
 この比較の興味深い点は、弁論と対話が違う概念として区別されているところにあり、弁論が個人の立身出世など利己的な目的で用いられ道徳的に劣るとして非難されている一方、対話はお互いの理解を深め、道徳的な真理の追求に役立つものと見なされている。元来の目的が違っているわけだから手段としての洗練も異なってくるわけだ。

 現代では、日本でもスピーチの能力については年々重要視されてきているそうで、学校教育にもそうした機会は数多く取り入れられていると聞く。自分の意見を表明すること、発信できることはいいことだ、と教えているのだろうが、大切なことは上記の〈弁論〉と〈対話〉の区別をきちんとさせることではあるまいか。
 自分のことを伝えるための言葉と、相手との理解を深めたいために話す言葉とでは、思考も言葉の選択も変わってきて当然である。しかし、スピーチという考え方を念頭に置いた場合、おそらくは〈弁論〉の概念にのみ特化した技術が洗練されていくように思う。
 その思考はたぶん、より強い〈弁論〉に対しては平伏し、礼賛してしまう考え方を育むのではないか。それが、ヒトラーに惑わされた人たちになってしまう、と言ったら飛躍がすぎるだろうか。

 個人的な感想としては智者と言われる人たちを論破するのをライフワークにしていたソクラテスが〈対話〉の能力に長けていたとはあまり思えないのだが(相当性格悪いと思う)、1対多の議論や多対多の議論が横行するSNS界隈においては、弁論が根本的にはまやかしであるという危険性を頭の片隅に置いた上で一歩引いた視点が重要だと今更ながら考えている。

 

 随分と横道というかギリシャ哲学に逸れてしまった。今更ながら私は哲学を専行しているわけでもないので、細かな間違いがあればご容赦願いたい(大きな間違いは恥ずかしいので指摘していただければ幸いである)。

 ヒトラー演説に戻れば、ヒトラーの影響力が一気に強力になったのは、スピーカーと映画の登場によるものが大きかった。より遠くまで声を響かせ、より多くの人々にその姿と演説を聞かせることができたからだ。演説自体の単語の並べ方や構成については入念に研究されていたものの、決して伊藤計劃の『虐殺器官』にあるような、特定のフレーズによって民衆を暴動に駆り立てたりできた訳ではない。

 そしてその魔術的なチカラが衰えたのも、やはりラジオや映画に頼ったところが大きかったと本書では指摘されている。つまり、民衆は四六時中絶えず聴取することを強いられる演説に飽きてしまったのだ。演説が熱狂を持って支持されるためには、共感とライブ感が必要であり、それらは演説の内容はもちろんだが民衆の反応があって初めて大きな力となる。歓迎されない演説に力はなく、そうしてドイツは敗戦の道を辿っていった。

 

 ナチス第一次大戦の補償に喘ぐドイツ国民に希望を提げて支持を獲得していった演説は、本書を読んでいるぶんには多分に独善的で、とても心酔できるものとは思えない。だが、これは私がいま貧困でもなければ社会に不満を持っているわけでもない、その環境によるところが大きいのだろう。

 いま世界を蝕んでいるコロナ禍は、ダメージの大きい国ほど、国民を一つにしよう、誇らしい祖国よもう一度、というような見方によっては閉塞的な団結を掲げているようにも見える。

 グローバリズムの急所を突く形となった今回の惨事が終わったとき、その痛手から回復するために、なにやら特効薬と甘言を持って現れる政治家がいたとしたら、少し警戒した方がいいかもしれない、と纏めたら少し意地悪すぎるだろうか。

読書感想:『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』高橋ユキ

 久しぶりの読書感想。この本を読み終えたのは少し前で、読んだ直後に感想を半分ほど書いたまま放置していた。たまにある「つらつら書いてきたけど、こんな感想だったかしら」という自分に嘘をついているような疑念がふつふつと湧いてきて、文章を続けるのが気重に感じられたからだ。少し時間を置いて落ち着いてきたところもあるので再チャレンジしてみよう。

 

 さて、本作は2013年7月に山口県の寒村で起きた連続放火殺人を追ったルポルタージュである。
 5人の人間に執拗な暴行を加えて撲殺し、住居に放火する残虐性。さらに容疑者の生家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という犯行をほのめかすような貼紙があったことから、あっという間に世間の耳目を引くことになる。
 あまりに猟奇的なこの事件は、またたく間に人口に膾炙し「閉鎖的な限界集落で起きた『平成の津山三十人殺し』」として様々な憶測や噂が飛び交うようになった。
 加えて、逮捕された容疑者が語った動機からは、都会から故郷に戻るも地域に溶け込めず、住民とは深い溝があったことが判明。農村社会の幻想に対する批判まで噴出し、騒動にはさらに拍車がかかる。果たしてこの村ではなにが起きていたのか?

 

 このセンセーショナルな事件において、実際になにがあったのかを調査するために著者は現地に向かう。取材する中で住民たちから得られた「うわさ話」を、メディアとSNSが語ってきた「物語」と付き合わせ、そこから事実を探ろうとする。
 おびただしい数のグレーを白と黒により分けながら、それでも残り続けるグレーに焦点を当て、なにがそれをグレーたらしめているのかを問い続ける。そんなスタイルで書き連ねられたノンフィクションだった。

 

 ……はい。ここでちょっと反則技なまとめ方をしてしまうが、結果的に本書は真相にはたどり着かない。なにが原因だったかを克明に突きつけることはできなかったし、もっといえば動機に繋がる確実な物証を掴むこともできなかった。
 著者はこのルポをあるノンフィクション大賞に送ったところ評価はいまいちだったと述懐しているが、そりゃそうだと思う。真相に迫っていないのだから。

 しかし、本書が読者に投げ掛けてくるもっとも重要な示唆は、そもそも「真相」というほどはっきりとしたものが、この事件の根幹には存在しないことを浮き彫りにした点にある。
 極めて少人数の集落が持つ、単純でいて同時に複雑な人間関係と、一般の感覚からは乖離した常識の中で生活する人々。物語を語る村人の価値観に「あれっ?」と思わせる歪みがちらりと見えるものの、そこで語られる「うわさ話」は生活に根ざし、行動の規範にすらなっている。実際にあったことや記録されていること以上の重みをもって「うわさ話」は肥大し、同時に細分化している。ふたりという最小人数の関係性で語られる噂。集落全体の噂。別の集落から見た、その集落の噂。そして、おおっぴらに語られる噂と、限られた人々でだけ語られる秘密の噂。

 こうした掴みどころがなく、それでいて逃れることのできないコミュニケーションの檻とでも呼ぶような存在が、事件の背景として次第に明らかになっていく構成には戦慄させられた。
 ひるがえって、こうした「うわさ話」によるナラティブの獲得と疎外とでも呼ぶべき現象は、事件の舞台となった限界集落以上に、いまこのSNS全盛期のコミュニティに対して暗い影を落としているのではないかと思わずにはいられない。


 前段で「本書は真相にはたどり着かない」と書いているが、そのことは本書の完成度にまったく影響するものではない。
 それらがそもそもコミュニケーションの一形態でしかない「うわさ話」であり、犯罪を犯した当人までもがすでに妄想の世界に深く逃げ込んでしまったことにより「真相」を探る術は完全に消失してしまっている。本書の目的は「真相」がすでに存在しなくなったという「事実」を明らかにすることにあったと思う。
 真実は証言者の数だけ存在し、その真実は極めて限られた共同体でのみ共有される「うわさ話」を元にして構成されている。人によっては確かにあったものはなかったことになり、なかったことがあったことにもなる。それは誰かが悪いわけではなく、そうした社会で生活していることに起因する。

 

 大ヒットした『サピエンス全史』において、人類が生物種としての覇権を握るうえでもっとも重要だった進化の要素が「うわさ話」をすることだと書かれた箇所があった。
 ヒトは「うわさ話」をすること、つまり「架空の物語」を考えること、語ることによって集団を同じ目的のために協力させることができた。その技能は宗教として発展し、文化の形成に繋がっていく。
 初期の「うわさ話」は、集団の中で誰が協力的で誰が嘘つきかを見極め、集団の生存力を高めるために役立ったという。そうした機能によって今日の大繁栄を築いた人類は、当然ながら噂話が大好きで、それに依存することをやめられない。

 さて、現代において「うわさ話」は生存活動においてますます重要な地位を占めつつある。否、これまでの社会生活において噂が重要でない時代など存在しなかった。単純にこれからもそうだ、というだけの話だ。
 しかし、現在のグローバル化が進んだ社会において、我々が所属する集団の大きさは「うわさ話」でまとめ上げられる許容範囲を大きく超えている(『サピエンス全史』では、一集団が噂話でまとめられるのは150人まで、としっかり規定されている)。それでも私たちは、おそらくは遺伝子的なレベルで噂から逃れることはできず、そこから好き嫌いを決め、判断を下し、生活の基盤を形作っていくことになるだろう。そこには必ずひずみが生じ、そのひずみはなにかの形で、たとえば今回のような事件で噴出することがあるのではなかろうか。

 

 普段何気なく交わすコミュニケーションという枠(檻でもいいが)の存在と、「うわさ話」というヒトを駆動する正体不明の力について、私たちはもう少し慎重になるべきなのかもしれない。

2020年の年明けによせて

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

 いま? と思われた貴方は実に正しい。1ヶ月と1日遅い。そんなことは十分承知している。なんやかやと忙しくしているうちにあっという間に経過してしまった。恐ろしい。

 このご時世、受験生であればセンター試験の追い込みから本番、二次試験の申請までを終えている。一生を決定付けるとまではいかなくとも、その選択肢を夢に垣間見る泡沫から具体的な名前のついた枠に嵌めてしまう程度には選別してしまう、生きていくうえで避けられない人生の関門である。そういう重要な時期を漫然と過ごしていたわけだ。

 が。思い返せば私がセンター試験を迎えた高校3年生の頃にも、案外ぼんやりと過ごしていた。地元では進学校に数えられる高校に進み、日々の勉強をサボるほど情熱を傾ける部活や趣味もなかったため、割と順調に成績を伸ばして(いま思うと悲しい学生生活)高校3年生を迎えた。

 当時の私は「これではいかん」と急に思い立ち、突然マンドリンを習い始めた。楽器経験もなく受験戦争が本格化する中でのこの選択。面白い。我ながら面白い。その後無事に大学に合格して地元を離れることとなったため、わずか1年学んだだけになってしまったが、楽譜の読み方を覚えられただけでも有意義だったと思う。

 私の高校3年生時代の寄り道はそれだけではない。夏休みにFF10に激ハマりしたところ、成績が見事に伸び悩んでしまった。某キャラの隠し武器を取るために、部屋を真っ暗にして意識を集中し、稲光に合わせてボタンを押す作業に勤しんでいた受験生もそうはおるまい。隠し要素にもガチで挑んだ結果、学業がまあ伸びなかった。というか落ちた。運動部の引退組が目覚ましい成長を見せるのに反比例する形で偏差値を10近く落としたのは、私の人生における最初の「転落」だったように思う。

 ちなみに私は本気で挑むほど熱中した物事が少ないため、図らずも挫折の経験が少ない。人生で唯一の挫折と呼べそうなものは10年ほど前の失恋であるが、それについては2万字くらい書けそうなので別の機会に譲ろう。

 

 さてはて。そんなこんなで迎えたセンター試験。私は普通の受験生が絶対に避けるミスを犯す。ある教科の試験中に、どうしてもトイレが我慢できなくなり途中退席したのだ。

 緊張で睡眠時間が短かったこともあって、持参したコーヒーを昼食の際にがぶ飲みしたのがよくなかった。試験開始直後から尿意を感じ「ひょっとしたらマズイかも」と思ってから数分で「これは終了時間までは持たん」という確信に変わった。いざというときに思い切りがいいのは私の数少ない長所である。集中して問題を最後まで解き、名前と問題番号のマークをチェックしてから躊躇せず挙手。トイレに立った。

 途中離席は試験会場に戻れないはずなので、試験会場の入り口でパイプ椅子にでも腰掛けて試験終了を待っていたのだろうが、そのときの記憶は定かでない。

 というのも、その後の大学での二次試験で同じことをしたため、トイレでスッキリした後の記憶がどちらのものなのか判然としないのだ。我ながら迂闊としか言いようがない。二次試験のときは試験会場には戻れなかったため、喫煙室の向かいのベンチに座って惚けていた確かな記憶がある。センターのときにどうしたかは、そのときの感覚と混然となっていてぼんやりとしている。

 

 そんなこんなで同じ受験生たちの前で存分に恥はかいたが、その後国公立大学に現役合格をキメたので結果オーライである。恥のついでに白状するが、私はその大学を4年で卒業していない。お金を出してくれた両親には迷惑をかけたと思っているが、大学時代の経験はいまでも私という人間の根幹を作る礎となっているため後悔はない。

 そうやって入った大学生活を送るために実家を離れて一人暮らしをはじめ、そのまま地元を離れて就職し、15年してから色々あって故郷に帰ってくることになった。

 いまの私は、いわゆる「こどおじ」である。田舎の実家暮らしは窮屈なことも多いが、貯金が捗るというのは大きなメリットだ。すげえ捗る。町内には気に入らないジジババもいるが、間も無く鬼籍に入る連中ばかりだと思えば親切にすることは容易い。……容易いは言いすぎたが我慢できなくはない。

 

 さて。横道に逸れて随分とペラペラと書いてきたが、まあまあの文量になってきたのでこのくらいにしておこう。

 そうそう、昨年は「ヤバイ『小吉』を引いた」と何度か口にしたが、今年の初詣で引いた御神籤も残念ながら小吉であった。しかし昨年の小吉に比べると各項目に書かれた優しい内容だったので少し希望を見出している。

 なにか面白いことがあれば書き記すようにしよう。ともあれ、今年もよろしく。

2019年振り返り

 今年も残すところ僅かとなったので、備忘録も兼ねた振り返りをひとつ。

 ざっくりと振り返ると、思うように行かないことが多い一年だったと思う。昨年までの数年間は順調だと感じることが多かったので、ここいらで停滞と我慢の年がやってくるのは巡りあわせとしては自然なのだろうなという気もしている。いずれにせよ、心穏やかな年ではなかった。

 そもそも今年は年の初めから躓いた。昨年末に風邪をひいてしまい、年越しと元旦を体調を崩した状態で迎えてしまった。その後、いつも参拝する神社でいつものように御神籤を引いたところ「小吉」だったのだが、この内容が妙に痛烈であったのだ。

 私は無神論者ではあるものの、バイオリズムというか因果律というか、本人の預かり知らぬところでの浮き沈みみたいなものはあると感じており「いまはノッてる時期だから頑張ろう」とか「ツキが離れてるから謙虚に行こう」というような、心構えの指針や自省の契機として神仏にお参りすることは多い。神に祈るとき、私自身の中に神は内包されており、すなわち私は祈る神そのものである。さあ崇め奉るのです。

 冗談はさておき、私は元来くじ運があまりよくないが(御神籤をくじ運などと言うのも不敬である)今年の運勢を記したそれは、過去に引いた凶御籤と比較しても「吉」要素が極端に薄い小吉であった。

 その一部を抜粋すると、「願望:思うにまかせず目に見えて早くは出来ず」、「待人:来れども遅し」、「旅行:金銭の費多し慎め」、「商売:利益なく損あり」、「争事:勝がたし。言うな」、「恋愛:感情を抑えよ」、「病気:医師をえらべ」などなど、スッと物事が進むようなステータスがひとつとしてなかった。この御神籤をまじまじと眺めながら、マジか、と思った今年の初めだったが、どうにもマジだった。

 

 とはいえ、すべてがすべて的中するわけでもない。御神籤では慎めとあった旅行であるが、今年は仕事の都合で初の海外へ出掛けた。それもいきなり中国に7泊8日である。ベトナムに近い南寧という街が出張先だったが、凄まじい勢いで発展する中国社会のパワーとそれを支える人間の数に圧倒された。思うように行かないことも多々あったが(日本以上に融通の利かないところではあった)、それ以上に勉強になったことが多かった。勝手に抱いていた中国のイメージが良くも悪くも揺さぶられることとなり、慎まずに出掛けてよかったと思っている。幸い、金銭の費も多しというほどではなかった。

 あるいは、御神籤を読み返して「ちょっと油断すると死ぬほどボラれるに違いない。仕事以外では大人しくしとこう」と心に誓ったことが未然に被害を防いだとも考えられる。パラレルワールドの私はハニトラに引っかかって当局に拘束され、身代金を払ったかもしれない。万事塞翁が馬である。

 

 さて、今年の反省点はたくさん挙げられるのだが、忙しさにかまけてまともに趣味活動をしなくなっているのは悪い習慣であると思う。読書も中途半端になったし、運動もできていない。忙しいことに間違いはないが、それでも前職のときに比べれば肉体的な負担は少ないし拘束時間は圧倒的に少ない。そして自由に使えるカネは多くなった。

 したいことはする。なにしろそろそろ年寄りだ。できないことも増えてくる。思い立ったらそこがスタートラインだと励ましてくれるヒット曲は多いが、彼ら(彼女ら)はそれができなかったときの責任を取ってはくれない。あまり真に受けてはいけない。底辺層に泡沫の夢を与えてぺろりと搾取する悪魔だよあいつら。

 先ほどの御神籤の話ではないが、最後に信じられるのは自分だけだ。先ほどの旅行運のようにダメそうだと釘を刺されても、腹を括って挑んでみたら新しい発見や素敵な出来事に出会うことはもちろんあるのだ。そもそも御神籤だってどこかのメーカーが大量生産してカタログを作って全国の神社に配っているのではないのか。その辺りの仲卸はどうなっているのか。どうなの。

 話が逸れた。ちょっとやりたいことがあるので、来年と再来年、2年間を区切りに頑張ってみることにしよう。内容については達成できなかったときに恥ずかしいので言わない。というか、こういう場所でガス抜きをしてしまうと心理的に満足してしまうので控えたほうが良さそうである。

 

 酒が回ってきた。どうでもいいことはいくらでも書けると思うが、そういうエネルギーも有効に使えるように貯めておこう。

ミステリー小説の推理メモ:『女王国の城』有栖川有栖

 ここしばらく、標題の小説に首っぴきになっている。解決編の手前まで読み、そこまで行ったら最初から読み直す、という珍妙な読み方を繰り返しているのだが(もちろん事件の真相を自力で究明したいからだ)、ふと「道中に推理していたことを書き残しておいて、読了後にそれを読み直したらどのくらいズレているか」を実験してみてはどうか、と思い立った。

 ミステリー作品を読み終えたとき、トリックの根幹や犯人が明らかになるシーンで「ああ、そういえばそこ、気になってたんだよね」という手応えを感じ、なんだか自分もそこそこまで推理が当たっていたかのような気持ちになることがある。しかし、それは単に読み進める中で探偵役の思考をトレースして生まれた錯覚であるやもしれず、厚かましい記憶の改竄を行なっているのではないか。

 実際そこのとこどうなの? という観察をしてみようと思ったわけだ。

 

 やることは簡単。標題の作品について、<読者への挑戦>まで読み進めた状態の私が推理している内容を書き残すだけ。

 今現在「謎はすべて解けた!」状態にはなっておらず、よって顛末を文章にすることもできないので、アイディアを散文的に書いていく。

 ここで重要なのは、思いついたことは一通り書き記すものとし、真相が明らかになった際、私が書いていないことは考えなかった(ばっちり見落とした)こととする点にある。ちょうど馬券を買うときのように、2着になった馬の単勝や、はたまた1着3着の馬連なぞは惜しくもなんともない、正真正銘ただのハズレである。

 おそらくは無能を断罪する鉈が振り下ろされ、的外れなアイディアをべろべろと垂れ流す愚挙も明らかになるであろう。恐ろしすぎる。

 

 もっとも、こんなことをやりだすのは「もういい線いってるだろ」という手応えがあるからなので、はたして自分は名探偵なのかピエロなのか結果が楽しみだ。あんまり恥ずかしいことになったら記事を消せばいいのだし(悪党)。

 当然ながら作品の内容に触れるため、この先はネタバレだらけである。未読の方はご注意を。老婆心ながら、本作は非常に面白い作品なので(だから何回も読み直せるのだが)、私の散文で興を削がれるとしたら貴重な読書体験の損失である。ブラウザバックを推奨する。

 とはいえ、こうした試みをやろうと思ったのは、この作品が大家の傑作であり、初版からそれなりに時間が経っているため、すでに読んだ方も多いだろうという魂胆も影響している。幸運にも本作を読み終えた方がこれを目にしてくれたら、少しは外から眺めていて楽しめるものになるのではなかろうか。その辺りの感想も機会があれば聞いてみたい。

 では、始めよう。

 

※以下、推理の過程で江神シリーズに関する言及があるほか、同著者の『乱鴉の島』の核心部分に触れています。未読の方はご注意ください。

 

1 江神二郎が神倉を訪ねた理由について

 皆目見当がつかない(一発目からこの台詞か)。

 おそらくは前作『双頭の悪魔』で語られた、江神の過去と予言に関係があると思われるが、具体的にはさっぱり繋がらない。石黒操からの資料がヒントのような気もするが「協会に批判的な雑誌の切り抜きが入っていそう」(上238P)だけではなんとも。

 石黒は「急きやがったかな」(上22P)、当の江神は「今となっては急いで目を通すほどのもんやない」(上238P)と言っているので、江神は神倉出立以前に協会についてなんらかの具体的な疑念を持って石黒に資料の収集を要請し、その疑念自体は協会本部を訪れたことである程度解決していると受け止められる。

 しかし作中では、アリスたちと合流する前の江神が、協会内でなにか特別なことを見聞きしたような記述はない。会員たちと生活を数日一緒にしただけで解けた疑念とは?

 

2 11年前の事件について(密室事件以外の部分)

 今作の凶器である拳銃の出所となるこの事件。おそらく、この事件に説明がつけられれば、本作の謎はおおよそ解けるのではないか。密室事件については犯人指摘の際に触れる。

 それ以外にもぽつぽつと重要そうなヒントが出されている感じだが、どうも一本の線にならない。以下、重要と思われる要素を箇条書き。

・協会の関係者は、この事件の影響で指紋を取られている。警察に踏み入って欲しくない理由のひとつ?

・天川晃子の駆け落ちの手紙の消失。午後10時までには手紙は置かれ、午後11時過ぎには無くなっていた(上417P〜)。書かれていたのは駆け落ちの時間と場所なので、偶然に第三者がメッセージを目にしても、出て行った男の所にたどり着く以外なく、発展性がない。

・となると、手紙は偶発的にその場からなくなった。重要なのは、手紙の重しにしていた灯籠。これを、誰かが夜になって動かした。「事件の夜に、人魂がふわふわ飛んでいるのを見た(上151P)」というのは、この灯籠を持った人物が歩いていたことを意味するのではないか。では、なぜそんなことをする必要があったのか。

・野坂公子が中学生時代に手袋やマフラーを編んでいた(上263P)という証言。彼女には、そうしたものをプレゼントする相手、恋人がいる(いた)のでは。

・S&WのM10は、装填数6発のリボルバー。拳銃が見つかった際に「弾倉にまだ二発入ってる(下49P)」と椿が発言している。劇中で撃たれたのは、子母沢の殺害に1発、弘岡に1発、アリバイトリックに1発の計3発。引き算をすると、どこかでもう1発が撃たれている。この1発が11年前の玉塚を死に至らしめたものだろうか。上巻142Pで「弾も十発以上持っていたらしい」と椿は言っているので、銃はもっと使われていた可能性がある。

・11年前の事件には、木曾福島が二度出てくる。一度目は「木曾福島の駅前食堂のマッチ(上126P)」、二度目は晃子の恋人だった男性のアリバイについての「木曾福島の病院へ親戚の見舞いに行っていたんです(上192P)」というセリフ。直後に事件とは無関係だった、と続くが、本当に無関係だったのだろうか。

 

3 初日の夜にアリスたちを尾行していたのは誰か

 アリスが感じた、誰かに見られているという気配(上168P)。その後すぐにアリスは妄想の世界に突入して読者を面喰らわせるが、その妄想が一段落すると尾行は終わっている(上175P)。

 この人物はアリスたちを尾行することで、なにを確かめようとしていたのか。

 

4 協会の心変わりについて

 土曜日の早朝(正確には金曜日の深夜)に、江神に対する容疑が氷解したのはなぜか。逆説的に、金曜日の午後になって江神が急に拘束されたのはなぜか。

 前述の3、後述の7番とも関連しそうな問題。

 

5 第1の殺人(土肥)について

 江神とアリスの会話(下308P)より、犯行時刻は午後5時から13分までの間。

 ほとんどの人物に確固たるアリバイがないが、5時10分頃に部屋を出たという稲越(上362P)、同じく5時10分頃に本部に戻ったという芳賀(上397P)には正味3分程度しか時間がなく、犯行はかなり難しいと判断する。

 他に、この件については上巻のラスト(434P)でさっくりと語られた「犯行がなぜ午後5時過ぎだったのか」も重要なヒントになりそうである。こちらは後述。

 

6 ビデオを盗った目的について

(1)侵入する千鶴が映っていたのを隠すため

 しばらくはこれが妥当だと思っていたが、その先に推理が飛ばない。

 まず、犯人にとっては犯行後の出来事になるため、千鶴の侵入に気づくチャンスがない。仮に別の人物が処分したとすると、今度は死体を無視した意図が不明。そもそも一度侵入されてしまった以上、千鶴が発見されるのは(この時点では)時間の問題であり、ビデオを抹殺したところで洞窟からの侵入を隠せるわけではなく不確実性が大きい。この発想はハズレっぽい。

(2)聖洞に隠してある拳銃を取りにいくため

 シンプルに考えるとこちらが正解だと思うのだが(作中でアリスが言及し、織田も「それ正解」と言っている)、疑念も残る。

 千鶴が洞窟の手前まで何度か出入りしていたことが明らかになっており、探検して遊んでいた(下286P)というくらいだから、拳銃のような異物があれば見つけているだろう。一本道の洞窟ながら壁面には窪みもあるようなので(下298P)隠せないわけでもなさそうだが、描写からは隠しておくのは難しかったように思われる。

 一ヶ月前にあった警察の捜索で見つからなかったのは、臼井が身体を張って捜査を拒んだ(上365P)という聖洞に隠していたからとしか考えられないが(臼井は拳銃の存在を知っていたかも)、千鶴は半年前には洞窟を発見しており、警察の捜索の時点ではすでに入り口手前に到達していたことが予測され、洞窟が隠し場所として適さないことになる。

 しかし聖洞以外に適当な隠し場所があったとも思えず、ビデオを抜き取ったことからも拳銃が事件直前には聖洞にあったことは確かなようだ。もう一段階捻りが必要か。

 

7 協会が隠蔽しているものについて

(1)時効の成立

「2日間の猶予」への固執から真っ先に思い浮かび、それが11年前の事件ではないか、と半ば脊髄反射で考えた。しかし、元警察官の椿が「時効は成立していない(上118P)」と発言しており、11年前の事件が1979年10月8日(上117P)、作中時間が1990年5月21日(上329P他)であるために噛み合わない。これはハズレだろう。

(2)金銭トラブル

 となると次点の着眼点は<曜日>。土日を経て月曜まで待つ必要があり、かつ協会が関係しそうなものとなると金融機関(東京証券取引所)くらいしか思い浮かばない。

 こう仮定すると、前述5番の<犯行がなぜ午後5時過ぎだったのか>が繋がる。金曜日の営業時間終了から、次の営業開始となる月曜朝までの時間を最も長く捻出するため、ではないか。加えて下巻214Pでは、臼井が「協会の用事」で外出しており、それを勘付かれた吹雪の反応からは大きな動揺が伺える。協会は存続に関わるレベルの金銭トラブルを抱えているのではないか?

 同時に、この想像が当たっているとしても、一連の殺人事件に発展する動機には思い当たらない。金銭トラブルは協会側の都合であり、犯人はそれを知った上で別の動機から殺人計画を遂行していると見るべきだろう。

 なお、この辺りの想像については著者の別作品、『乱鴉の島』からインスパイアされた部分が大きい。インターネットに聡い協会は、世間が協会の金銭的失態に気がつく前に、資産を安全に処理しようとしたのではないか。とはいえ、類似するアイディアを積極的に盛り込むとは考えにくいので、これも的を射たものとは考えにくい。

(3)野坂公子に関するなにか

 最後に、もっともあり得る材料として、月曜日には<野坂公子が西の塔から帰還する>ことが示されている(上333P)。それまで警察に押入られたくない理由を推察すると、野坂代表に会わせたくない、という理由を想像するのは容易い。あわせて、作中後半で吹雪が千鶴や江神に代表の名前を出されるたびに大げさな反応を示しているのも気になる。

 少し飛躍して考えると、会わせたくないのではなく、<野坂代表はいない>のではないか。大事な儀式の最中に外出していることが明るみに出るのを恐れ、警察の介入を拒んでいるのではないか。代表の帰還は月曜日と決められており、それまでは外部に事実を明らかにしたくない理由とは考えられないか。

 <いない>という事実の発覚を恐れているというのは、スジとしては悪くない気がするが、では不在の理由はなにか、というのが気になってくる。下巻237Pや同316Pの吹雪の反応は、協会から永久的に野坂代表がいなくなったこと(あるいは、いなくなりそうなこと)を示唆しているのかもしれない。野坂代表は信仰を捨て、その後継として子母沢が呼ばれて一連の儀式が行われていたとすると、殺害の動機にもなりそうだ。

 その場合、下巻137Pで江神とアリスが目にした「西の塔の人影」は何者になるのか。小説に不在の人物がいるのだろうか?

 

8 第2の殺人(子母沢)について

 第2の殺人と、後段の第3の殺人は2発の花火に合わせて行われたことが作中で書かれている(下120P他)。また、午後10時の花火については、総務局と祭祀局の人間しか知らなかった(上392P)とあるため、研究局に属する芳賀と、医師の佐々木は容疑者から外れる。

 また、織田と本庄の会話(下260P)から、午後11時10分頃に弘岡の姿が確認されているため、午後10時の花火で子母沢が、午後11時17分の花火で弘岡が殺害されたと推測される。

 午後10時のアリバイが成立するのは、一緒に花火が上がる瞬間を見ていた臼井、丸尾、椿、荒木。アリバイがはっきりと確認できないのは、由良(下191P)、芳賀(下201P)、佐々木(下201P)。判断保留は、0時まで見守りをしていたという稲越。事件後間も無くから待機室にいたらしいが、それを証明するものがない。吹雪は午後10時半頃に佐々木の元を訪れている(下200P)、本庄は夜食を作って配っていた(上433P)と織田が証言しているが、いずれもアリバイとしては機能しない。青田についてはアリバイを確認できる描写がない。

 

9 第3の殺人(弘岡)について

 読者への挑戦状までに、江神によってあらかた彼の死は謎が解かれてしまっているが、8に書いたとおり犯行時刻は11時17分。この時間のアリバイについては明確な記述がない。

 解決編までに残った謎は2点。ひとつは「なぜ彼がスケープゴートに選ばれたのか」。もうひとつは「なぜ犯人はトリックを弄しながら、アリバイ工作をしなかったのか」。

 犯人が協会員と考えると、弘岡がスケープゴートに選ばれた理由は「厄日」だったから(上313P)かもしれない。

 アリバイ工作をしなかった理由は、単純にその必要がなかったから、ではないか。そもそも、今回の事件では警察の捜査が入ってしまえば科学捜査の結果、犯人は逮捕されることを承知しているはずだ。犯人はすでに本懐を遂げており、数日を無事に過ごせれば(月曜日を迎えるまで?)いいと考えているのでは。

 しかし、そう仮定すると今度は「弘岡の死体に拳銃を握らせて発砲させる」行為の意味が不明になる。アリバイ工作以外の理由から、彼に拳銃を発砲させた理由はなにか。

 パッと思い浮かんだのは「自分ではない誰かのアリバイを作って、その人を容疑から完全に外すため」だが、これによってアリバイが成立した人物はおらず、もとより確実性が低すぎて適さない。

 あるいは、弘岡の殺害は偶発的なもので、犯人は事が済んだ後で自殺に見せかけることを思いつき、単純に弘岡の手に硝煙反応を残すためだけに拳銃を発射させただけかもしれない。

 

10 聖洞で江神には、なにが「わかった」のか?

 ここの描写は、著者からの最大のヒントであるような気がする。というのも、犯行時間が狭められたこと(5参照)自体は、作中で言及されているとおり意味をなしていない。つまり、江神はもっと別のことについて仮説を抱えており、その確信を深めたのだと推察される。

 ここで重要なのは、<8歳の千鶴ちゃんには洞窟が自由に使えた>という事実ではないか。11年前の事件とあわせて考えると、<当時8歳くらいの年齢だった神倉の子供たちにも、洞窟が使えた>ということになる。該当するのは、野坂公子、丸尾、青田、弘岡の4名

 当時の少年たちに洞窟が使えたことが今回の事件のヒントになるとすれば、やはり拳銃を隠しておけたこと以外にはない。少なくとも、この4名のうち誰かが今回の事件と11年前の事件に関わっている。

 

11 マリアが聞いた協会員の会話

 逃亡中にマリアが聞いた、下巻306Pの会話はなにを意味するか。

 前提として、この話が江神に伝えられる前に解決編に突入してしまうため、このエピソードなしでも真相究明には支障がなく、純粋に読者に向けたヒントとしてのみ存在していると思われる。同時に、あんまりこだわっても事件の解決には寄与しないということだ。

 気になるのは2点。ひとつは代表の散歩ルートに11年前の現場が入っていること。もうひとつは、心配されながら同時になじられている「おやっさん」が誰かということ。

 「おやっさん」に該当しそうな風貌で、かつ「どの面下げて帰った」という行動に当てはまるのは臼井しかいない。下巻162Pの稲越の愚痴や、弘岡が嘘のアリバイを証言したことなどから、財務局長殿はあまりリスペクトされていないような印象を受ける。が、協会本部から外出するのに<帰った>と表現されるのは説明がつかない。

 本作はかなり読み込んだつもりだが、作中でこの「おやっさん」に該当しそうな人物は、臼井以外では天の川旅館の大将くらいしかいないが、大将の場合にも「どの面下げて帰った」が繋がらない。

 それ以外で唯一該当する人物を見つけた。上巻12P、物語の冒頭でアリスと正面衝突しそうになったバンの運転手である。アリスは「オヤジさん」と形容している。このバンの運転手がそうなら、「どの面下げて帰った」も当てはまるが、だったら話がどう繋がるのかはわからない。

 

12 アリバイのある人たち(犯人ではないことが確定)

 さて、それでは本題に入ろう。

 読者への挑戦状にて「犯人は独りで立っている」とあることから、単独犯であることが想定される(違っていたら作者は底意地が悪い)。よって、3つの殺人事件において、ひとつでもアリバイが成立する人間は犯人候補から外す。

 アリバイが成立しているのは、臼井(8参照)、丸尾(8参照)、椿(8参照)、荒木(8参照)、芳賀(5、8参照)、佐々木(8参照)、稲越(5番)。君たちは犯人ではない。帰ってよし!

 

13 アリバイのない人たち(犯人候補のみなさん)

 犯人の可能性があるのは以下の人たち。一人ずつ穿った見方を加えていく。

・由良

 協会側の胡散臭い人間として真っ先に登場。いかにも犯人っぽいが下巻239Pからの推理パートが演技だったとも考えにくい。江神の拘束に動いたのは由良の判断だったようであるし、その拘束を解いたのも彼女だったようだ。

 協会の隠し事には深く関わっているようであるが、それゆえか犯人の動機にも見当がついており、独自に犯人探しをしているような印象を受ける。それにしてはどうにも態度が中途半端だが。

・吹雪

 臼井と組んでなんらかの策略を巡らせているようであるが(7番参照)、協会員にどこまでそれを明らかにしているのかは謎。おそらく局長クラスしか知らず、由良や丸尾などの幹部候補生も詳細は知らされてはいないのではないか。

 野坂代表に対する反応が、彼女だけ妙に大げさなのが気になる。彼女だけが、協会の隠し事に関する事態の深刻さに気が付いているのかもしれない。

・本庄

 椿も気にしている、午後5時頃の手際の悪さが引っ掛かるが、それ以外には怪しい要素はあまりない。

 野坂代表不在説を採ろうとすると、塔に食事を運ぶ係だった彼女も当然その策略に関与していることになるのだが、信仰心の強い彼女を懐柔できるか気になるところである。彼女はあまり演技や隠し事が上手ではなさそうなので、協会存続の危機が迫っているのであればもっと混乱していそうだ。

 また、事件二日目の朝は彼女の代わりに芳賀が野坂代表のところに食事を運んでおり、芳賀にも不在がバレることになる。今更ながら、代表不在説は苦しいのかもしれない。

・野坂代表

 最初に通読したときには、犯人は野坂代表で、協会内部の人間があらゆる手を使って犯罪を隠蔽し、犯人候補に罪を着せるために暗躍しているというのが本書の大筋なのでは、と見当をつけていた。というか、<読者への挑戦>で「犯人は独りで立っている」という断言がなければ、この全員犯人説を採択していたところだった。

 代表が犯人だった場合、協会内部を出歩いているのを見られただけでアウトになってしまうため、代表は教唆役であり実行犯は別にいることになる。たとえば実行犯として動いた弘岡が最後に始末された、と考えると一連の犯行は可能となる(始末は当然また別の協会員ということになるが)。

 一方で、よりによってゲストがいるときに一連の犯罪を起こした理由に説明がつかない。なんらかのアクシデントにより犯行を急ぐ理由があったのかもしれないが、作中でそうした要素を見つけることは難しい。

 くどくど書いてきたが、この大長編で動向が不明の代表が犯人というのは反則技だと思うので、可能性は低いように思う。想像することは不可能ではないが、それを肯定する描写もないのだ。

・その他の人物

 天の川旅館のみなさんもそれなりに怪しいところはあるのだが、せいぜい協会の回し者レベルではなかろうか。本作は登場人物のリストが非常に長いが、事件発生時に協会本部内にいなかった人間が犯人ということはないだろう。これで協会内に潜んでいた熊井誓が犯人で、設計者だけが知る秘密の通路を使っていた、とかだったら逆に驚愕するけども。

 さて、長い長い茶番にも終わりの時が近づいてきた。次で犯人を指摘する。ジッチャンの真実はいつもまるっとお見通しだ!

 

14 犯人は?

 もうこの人しか残っていない。

 今更ながら、13で挙げた犯人候補たちに共通する<犯人でない理由>として、「聖洞に拳銃を隠すことができなかった」ことが挙げられる。10で書いた通り、凶器となる拳銃は11年前に子供だった犯人が聖洞に隠し、いまになって使用したとしか考えられない。拳銃は洞窟探検をしていた千鶴に見つけられないように隠されていたことになり、拳銃の存在を聞かされただけの人間では、土肥殺害後の限られた時間で拳銃を見つけることは難しかったと判断する。

 11年前の事件は、密室の謎こそ解けないものの(千鶴が倉庫で見つからなかったトリックの応用だと思うのだが、しっくりこない。椿がドアチェーン越しに覗いたときと扉を蹴破ったときはドアの裏側に、窓側に回り込んだときは窓際の壁下に隠れたのだと思うが、後者については上巻137Pで「人間が隠れるスペースはありませんでした」と断言されている。子供ならできた?)、単純に玉塚が自殺し、闖入した子供が鍵を掛け、拳銃だけを奪ったと考えられる。

 同じく、2番で触れている「灯籠を持ち出した理由」も、洞窟の中に拳銃を隠しに行くのに使用したのではないだろうか。5番で指摘したとおり、土肥の殺害に使えた時間は最大で13分間と非常に短い。聖洞の入り口(協会側)に近いところでないと、千鶴と鉢合わせる可能性すらあった。拳銃を盗った子供は、洞窟探検のために夜中に現場に戻ったのではないか。放火騒ぎは、灯籠の火によるなんらかのアクシデントだったのではないか。 

 動機の推測としては、彼は早くに母親を亡くしており、次いで父親も事故で亡くなっている(上374P)。協会の会祖に「母親を殺された」と思い込んでの犯行ではないだろうか。つまり彼は、協会への復讐のために事件を起こしたのであり、そのために協会の今後を背負う人間を手に掛けたのではないか。

 色々と不明な点はあるし、至らない推理であることも承知している。しかし、方向性は合っていると思っているし、犯人にはおそらく間違いない。

 犯人は、青田好之だ。

 

15 おまけ

 以上、なんやかやで一万字を超えてしまった。

 通しで読んだ回数だけで8回。このメモを書き出してからは、要点を抜き出すように読むこともあったので、二ヶ月近くこのミステリーにつきっきりだった。おかげで、謎解きに関してはこれまでにない達成感と手応えを感じている。これで思い切り外していたら恥ずかしいが、それはそのときだ。

 ひたすらこの物語を追いかける中で、登場人物たちのこともすっかり好きになってしまった。EMCの面々はもとより、胡散臭い協会の人物も、物語の舞台の神倉も、見たこともない人物や風景が、いまでは映像となって脳裏に描けるようになっている。

 この記事をアップしたら、いよいよ解決編へと読み進めよう。楽しみでもあったのだが、少し残念な気もする。まるで卒業式を迎える学生時代のようだ、と言ったら言い過ぎか。

 

 最後に、解決編に向けた希望を。

 ちょっとした(人によっては大きいかも)ネタバレになってしまうが、江神探偵はこれまでの長編作品において、いずれも犯人の命を救うことにだけは失敗している。江神には防げなかった死もあったし、犯人の死によってしか救われなかった決着もあった。決して江神だけの落ち度という訳ではない。

 それでも今作では、できるなら犯人をも掬い上げる、完璧な名探偵ぶりを拝めることを期待している。

 さて。続きを読むのが楽しみだ。

読書感想:『インド倶楽部の謎』有栖川有栖

※以下、ミステリー作品の内容に関する言及があります。 

 

 久しぶりに購入した講談社ノベルス。著者の作品における「国名シリーズ」の第9弾は、待ちに待った長編小説である。

 前世からいまの自分に至るまで、その運命のすべてが記録されているというインドの神秘〈アガスティアの葉〉。その奇跡を体験するイベントに立ち会ったメンバーが殺害される事件が起きる。予言されていた被害者の死。会合に集う、奇妙な絆で結ばれたメンバーたち。謎に挑む火村・有栖川コンビだったが、調査が進むにつれ不可思議な事実が次々と明らかになっていく……。

 

 大長編のボリュームで、全容が見えてこない不思議な事件が炸裂。非常に読み応えがある一冊だった。

 事件の中心であり、容疑者でもあるインド倶楽部のメンバーは「前世のつながり」で集まったという胡散臭さ全開の集団。それでいて、そのつながり以外はまともというのが輪を掛けて曲者ばかりの印象を与える。そろいもそろって、とにかく怪しい。味付けの濃いミステリーが展開する。

 ミステリー作品としては「動機と、犯行が可能だった人物」を絞り込んでいくという比較的地味なストーリーになっているのだが(難攻不落の密室トリックなどは登場しない)、ここに〈前世の縁〉が絡むことで一気に複雑さが増している。

 本当に前世が存在し、それが事件に関係しているのか? そう見せ掛けただけの、隠された動機を持つ事件なのか? そもそも関係者は、誰がどこまで不思議な縁を本気で信じているのか? 証明困難な精神世界を射程に入れた物語は、行きつ戻りつ、悪戦苦闘しながらもやがて真相にたどり着く。神戸の街を舞台に繰り広げられる、異国情緒たっぷりの物語が堪能できる色彩豊かな作風をご覧あれ。

 

 少し読み進めるとわかるのだが、今作は著者の作品にしては妙にサービスシーンが多い。ほかの著作となっている事件に対する言及や考察が多かったり、セミレギュラーである登場人物の内面が描かれ、火村コンビとの関わりに変化が見られるなど、これまではほとんど動かすことのなかった舞台設定とも呼べる要素にスポットが当たっている。

 たとえば今作の会話のなかで、火村シリーズの著作のタイトルは、有栖が事件を振り返って名付けていることが判明する(それともほかの作品で、すでにこうした癖が披露されているだろうか?)。ここで槍玉に上がるのは『ダリの繭』、『朱色の研究』(未読)、『乱鴉の島』、それにほかの国名シリーズが何作かであるが、これまでは緩やかな横の広がりに過ぎなかったシリーズに、急に時系列の線が引かれたのでギョッとしてしまった。

 私個人としては「ひょっとして今作でシリーズは完結するのではあるまいな」と不安になった。あまりにも手の内が見せられすぎている。楽屋の扉がパカパカしすぎている。本作のテーマが〈前世〉であり輪廻転生に触れる箇所もあることから、時代は進んでも永遠の34歳というパラレルワールド的な時空間を舞台とする本作シリーズそのものについて、著者という神の手がちらつくような不穏当な気配を感じてしまい、「最終盤で物語そのものをひっくり返すようなメタなオチがついたりしないだろうな」と、ヒヤヒヤしながらページを捲っていた。こんなに奇妙な緊張感を持ってミステリーを読んだのは初めてである。

 

 少し話は変わるが、有名な刑事ドラマ『相棒』シリーズは、幽霊が存在して影響を与えてくる世界のお話である(最近は視てないので「だった」かもしれない)。

 なので、そうと知らずに視聴していると、ぽかんとしてしまうような現象や解決があったりする。死者の声に踊らされて最後の最後に墓穴を掘る犯人や、しゃれこうべに紅茶をかけて一件落着する物語には唖然とさせられるに違いない。いずれもかなり初期の作風なので、最近はたぶんこういう冒険はしていないとは思うが……。

 刑事ドラマだから科学的で硬派な舞台に違いないとは限らないのである。この物語はフィクションです、という断りが入っている以上、東京にしか見えないけど舞台は地球ではない可能性だってあるのだ。もちろん、物語の枠を台無しにするほどの逸脱は誰もしないだろうけど、ようはそういう「信用ならない可能性」みたいなものが蜃気楼のように物語の輪郭をゆらゆらするときがある。

 

 本作はそういう作品になっている。物語の中心に据えられた謎が、どこまでの規模の謎なのか。火村に解決できるのか。火村という〈物語の住人〉の輪郭の、さらに上を行くレベルの謎なのか。その判断も含めて、楽しく読める意欲作である。

 私の心配が杞憂に終わったのかどうかも含めて、興味のある方には手にとっていただきたい。なお、文庫化はまだまだ先だと思うので講談社ノベルスの棚へどうぞ。あそこの書架が持つ独特の雰囲気は、森博嗣を買い漁っていた頃を思い出して気持ちが若返る気がした。たまに見に行こう。