でろでろ汽水域

読書感想にかこつけた自分語り

6月14日 天気予報についてのホラ話

先週末の週間天気予報では今日は30度近い真夏日になるはずだった。蓋を開ければ朝からぽつぽつと雨が降り続く曇り空で湿度は高いながらも気温はさほど上がらなかった。基本的に天気予報は当たらない。これが競馬予想誌だったらクビになるんでないかというくらい当たらない。

実は日本の天気予報は収集可能なデータを駆使して綿密な予報をすると、4日程度先までなら95%予報は的中させられる。それも単に晴れ・曇り・雨といったアバウトな分類だけではなく、どこの地域に何時から何時頃まで何ミリの雨が降るとか、平均雲量や湿度、風速に至るまでほぼ正確なシミュレートが可能であるらしい。

かつては国内で定点観測できる限られた気象データから経験則のような形で今後の天候を予測することしかできなかった。現在は地球全体の気象変動をリアルタイムで観測することはもちろん、観測衛星等を利用して地磁気太陽風など宇宙規模での環境要因すらつぶさに観察することが可能になった。これらの膨大なデータを最先端の量子コンピュータで仮想化することで、極めて精密な天気予報が実現されたのである。

ではそれをすぐに活用すればいいではないか、と思われるだろうが、ここで問題になってくるのが「95%」という微妙な正確性にある。

たとえば農作物の播種や収穫といった仕事、あるいは行楽や旅行などのイベントは当然晴れの日に計画される。正確をうたう天気予報が「向こう4日間は快晴です」と言えば、当然そのつもりで一般市民は準備をする。しばらくは快晴なのだからのんびり仕事をするかもしれないし、休暇がある人は長期の旅行を計画するかもしれない。

ところがかの優秀な計算システムを持ってしても地球の気象は完全には読み切れていない。どうしても5%前後の確率で予報にはない予測不能な天候が訪れてしまう。市井の人々は非線形科学の理解に乏しい。気象庁に「お前らが晴れると言ったから仕事を(旅行を)計画していたのに台無しになった」というクレームが入ることになってしまう。

皮肉なことに確実性を増せば増すほど、予報が緻密になればなるほど、その予測が外れたときの反発は大きくなるのだ。利便性を追求すべく情報を練磨していった結果そこに本来存在しなかったはずのリスクが生まれ、その責任の所在をめぐって喧々諤々の騒動が起こる羽目になるのである。

青信号は常に青色でなくては車は安心して走ることができない。晴れのシグナルを出した日は常に晴れでない限り確実な予報は名乗れない。

そうした理由から天気予報は敢えてその予測精度の高さをひた隠しにしている。優秀なシミュレーターにノイズ要素を加え、さらに連続して予報が当たった後にはわざと予報を外す、という道化めいた手法すら使うことがあるという。「天気予報は外れるもの」というアソビを作ることによってかえって社会の安全に貢献しているのだ。

いつか100%確実に予報が可能となる技術が確立されるまで、どっちとも取れるような歯切れの悪い天気予報がお茶の間には流れ続けることになるのだろう。しかし言うまでもなく100%というのは無謀な数字である。実際の天気を人間が制するよりも、人間が自らの感情という天気を律することができるように期待する方がいささか分があるように感じられる。

以上、天気予報についてのホラ話でした。